柳田は高校で平均より下、高3引退後に「やめたい」広島商の恩師・迫田監督が秘話明かす

スポーツ報知
広島商時代の柳田

 2年連続日本一に輝いたソフトバンク・柳田の広島商時代の恩師にあたる広島新庄高・迫田守昭監督(73)が当時を振り返り、今の豪快な姿からは想像できないエピソードを披露した。

 正直、柳田は入部当初は目立つ選手ではなかった。身長160センチちょっとで体重60キロ前後。3年生になり180センチぐらいまで伸びたが、線は細かった。3学年で約120人の部員がいた当時の広商で、レベルは平均より下だった。

 彼は2年でもほとんど試合に出ていない。レギュラーをつかむ足掛かりになったのは、3年春の練習試合。代走で、センスのいい走塁で危なげなく二盗を成功させた。それで何とか戦力にしないといけないと考えた。もし、アウトになっていたら、その後は起用することにならなかったと思う。

 元々、三塁手だったが、守備は腰高で厳しかった。実は捕手も挑戦させたが、これも足が長いので無理。それで外野に落ち着いた。打撃は「3番・中堅」を任せるまでに成長した。ただ、今でこそ代名詞のフルスイングは、当時は全くしていない。広角に打ち分けるのがうまく、三振をしない巧打者タイプ。フルスイングできるだけの体もでき上がってないし、やっていたら僕が怒ってます(笑い)。

 3年の引退後に「もう野球を辞める」と言ったことがあった。東京と関西の大学のセレクションに落ちて、自信をなくしていた。「おまえが辞めたら、誰が野球をするんじゃ」と諭し、地元の広島経大が受け入れてくれた。本当によかった。1年からレギュラーで出て、当時の龍監督にのびのび育ててもらい、今のスタイルができた。龍さんの下じゃなければ、今の柳田はいませんよ。

 これから先、フルスイングがいつまで続けられるか。僕は年齢を重ねて難しくなった時に、高校時代のような打者に戻るんじゃないのかなと思っています。あんなに振らなくても、あいつは打球が飛ぶはずですから。(広島新庄高監督)

 ◆迫田 守昭(さこだ・もりあき)1945年9月24日、広島市生まれ、73歳。広島商を経て、慶大に進学。その後、三菱重工広島に入社し、76年に同社の監督就任。79年に都市対抗野球で初出場初優勝を成し遂げた。2001年からは母校の広島商の監督に就任し、08年から広島新庄高の監督を務める。

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