立浪氏が野球殿堂入り ミスター・ドラゴンズ誕生の裏に闘将の強運

スポーツ報知
現役時代の立浪氏(手前はダイエー・若田部)

 一本の電話が立浪の運命を変えた。1987年のドラフト会議が迫った11月中旬。中日の関西地区スカウトを務めていた中田宗男(現アマスカウトディレクター)はPL学園顧問の井元俊秀に連絡を取った。

 「立浪選手を1位指名させてもらうことになりました」。中日のリスト最上位にいた大卒投手がソウル五輪出場を目指し、社会人野球に進むと宣言。急きょ、南海との競合を覚悟した上で立浪の1位指名を決めた。さらに中田はある言葉を伝えた。「星野(仙一)監督が『俺が絶対にクジを引くから』と言っています」。保証のない口約束までした背景に、闘将の存在があった。

 30年以上も前の出来事を中田は懐かしげに振り返った。「あの時の星野さんは本当に神懸かっていて、クジを外すなんてみじんも思わなかった。立浪は絶対にウチに来るだろうという確信があった」。前年の86年には5球団競合の末に高校NO1左腕の近藤真一の交渉権を獲得。享栄高で近藤の女房役だった長谷部裕も5位で阪神と重複したが、あっさりと引き当てた。

 立浪の1位指名を公表すると、ライバルの南海のスカウトから中田の下に苦情が入ったという。「ウチは早くから立浪と言っていたのに。やめてくれよ!」。11月18日の会議当日。星野は当たりクジ引き当てた右手でガッツポーズを作った。

 野球殿堂入りを決めたこの日、立浪は星野のレリーフを感慨深げに見つめた。「18歳の高校生がいきなり開幕からショートで使ってもらった。あの当時、星野さんは38歳だった。一番、叱られた時代を経験させてもらったことが、後々、役に立ったかなと思います」と素直に感謝した。

 立浪がプロ1年目を終えた88年オフ。南海はダイエーに身売りし、本拠地も大阪から福岡に移転した。そのダイエーも05年シーズンからソフトバンクに生まれ変わった。言葉では表しにくいが、星野の持つ強運、雰囲気、オーラと言うべきか。あの全てを引き寄せてしまう見えない力がなければ、ミスター・ドラゴンズは誕生していなかった。【敬称略】

(プロ野球遊軍・表 洋介)

野球

×