歌丸さん「笑点」で前日まで笑い届け逝く 5代目司会、落語界発展に尽力

スポーツ報知
「笑点」の顔として日本中に笑いを届け、天国へ旅立った桂歌丸さん(15年8月の「笑点」から)

 日本テレビ系演芸番組「笑点」などで人気を博した落語家の桂歌丸(かつら・うたまる、本名・椎名巌=しいな・いわお)さんが2日午前11時43分、慢性閉塞性肺疾患のため横浜市内の病院で死去した。81歳だった。1966年放送開始の日本テレビ系「笑点」の初代メンバーで、司会としても、お茶の間から絶大な人気を得た。近年は肺炎などで入退院を繰り返しながらも高座に上がり続けた。葬儀・告別式は近親者で行う。喪主は妻の椎名冨士子(しいな・ふじこ)さん。お別れの会を11日午後2時から、横浜市港北区の妙蓮寺で開く。

 テレビの前のファミリーにも、寄席に通う熱心なファンにも愛された「ミスター笑点」が逝った。

 関係者によると、歌丸さんは横浜市内の病院に入院していたが、この日午前8時頃に容体が急変。医師が家族を呼び出した。「笑点」でも、「ウチの冨士子に…」と恐妻家ネタで何度も登場した冨士子夫人らにみとられ、同11時43分、帰らぬ人となった。

 5月上旬にも危篤が伝えられ、一門の弟子全員が夜の病院に駆けつけて容体を見守ったこともあった。ところが、驚異的な回復を見せ、一夜明けると、歌丸さんは「来てくれたんだね、ごめんね」と笑顔で謝ったという。6月30日に見舞った関係者にも「来てくれてありがとう」と感謝していたといい、あまりに急な訃報となった。

 横浜市で生まれ育ち、1951年、中3の時に新作派の古今亭今輔に入門。一時期、破門状態となって化粧品のセールスマンに転職したが、高座の夢を断ち切れずに兄弟子の桂米丸門下に移る形で61年に落語界に復帰した。

 国民的存在となったのは、二ツ目時代の66年に「笑点」への出演を始めてから。前身番組「金曜夜席」からの初代メンバーで、三遊亭小円遊と「ハゲ」「キザ」と、ののしり合い、6代目三遊亭円楽と「ハゲ」「腹黒」と罵倒し合うのは国民が共有する定番ギャグだった。06年からは5代目三遊亭円楽の跡を継ぎ、5代目司会に就任し、16年5月まで務めた。

 当初は軽妙な新作派として知られたが、68年の真打ち昇進後は埋もれていた古典落語に光を当てた。三遊亭円朝ものへの取り組みはライフワークに。04年からは桂文治の跡を継ぎ、落語芸術協会会長に就任。海外公演に乗り出し、字幕をバックに日本語で口演するスタイルでパリ、ニューヨーク公演を成功させ、落語の魅力を世界に伝えた。

 20代でメニエール病を発症すると、胆のう摘出、腹膜炎、肺気腫など「病のデパート」と自嘲したほど、生涯を通して病気と闘った。一昨年7月に腸閉塞で療養に入って以降は数か月ごとに入退院を繰り返し、呼吸器系疾患を抱えながらも高座にこだわり続けた。酸素吸入器をつけ、車椅子姿でも、高座に上がると不思議と艶のある声を取り戻した。「入退院を繰り返して肺炎な騒ぎです」「みっともなくて、今の目方(体重)なんて申し上げられません。35キロです」と病をも笑いに変えた。4月19日、国立演芸場での高座が最後となった。

 亡くなる前日の1日には「笑点」の直前のミニ番組「もう笑点」が放送された。4月7日に収録したもので吸入器はつけたままだったが、林家三平(47)との軽妙なやり取りを披露した。最後までお茶の間に笑いを届け、静かに81年の生涯の幕を下ろした。

 ◆桂 歌丸(かつら・うたまる)本名・椎名巌(しいな・いわお)1936年8月14日、横浜市生まれ。51年に古今亭今輔に入門。古今亭今児を名乗る。52年、上野・鈴本演芸場で初高座。54年、二ツ目昇進。61年、桂米丸門下に移り「米坊」に。64年、歌丸に改名。68年、真打ち昇進。65年、日本テレビ系「笑点」の前身「金曜夜席」のレギュラーになり人気者に。芸術祭賞(89年)、横浜文化賞(91年)、神奈川文化賞(96年)、芸術選奨文部科学大臣賞(05年)などを受賞。冨士子夫人と1男1女。趣味は釣り。

 ◆慢性閉塞性肺疾患 慢性気管支炎や肺気腫などの総称で、歩行や階段の昇降など、体を動かした時に息切れを感じたり、慢性のせきやたんが特徴的な症状。治療法としては気管支拡張薬の投与や酸素吸入などがある。日本呼吸器学会のホームページによると、40歳以上の8.6%、約530万人の患者が存在すると推定され、その多くが未治療と考えられる。

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