百田光雄、父・力道山の秘話を披露、急死した時の相続税は「20何億だった」

2018年3月3日16時6分  スポーツ報知
  • 父・力道山の思い出を語る百田光雄

 昭和の国民的英雄、力道山の次男でプロレスラーの百田光雄(69)が3日、東京・高円寺のCACCスネークピットジャパンでトークイベントに出演した。イベントではCACCスネークピットジャパンを主宰する元プロレスラーの宮戸優光氏(54)と対談。父・力道山の秘話を披露した。

 1968年2月に日本プロレスに入門し今年で50年を迎えた百田は、48年9月21日に力道山の次男として生まれた。父は50年秋場所前に相撲を廃業。プロレスに転向するまで相撲時代の後援者だった新田新作氏が経営する建設会社「新田建設」で資財部長を勤めていたという。「仕事は建築現場の現場監督で、そのころの父は、もの凄い荒れていた」と振り返った。当時、浜町に住んでいたが「毎日のように酒を飲んで帰ってくるんです。それも、もの凄い量を飲んでいたと思います。だから、日が暮れて暗くなって父が帰るころになると怖くて震えていた」という。息子が怖がる姿を見た力道山はさらに激怒し、ある時は「2階から階段で蹴り落とされた」こともあったと明かした。

 これまで力道山がプロレスラーへ転向したのは、日系レスラーのハロルド坂田と知り合い、誘われたことがきっかけと言われてきた。しかし、百田は「映画でもそういう風に描かれてきたけど、恐らくそれは、違うんじゃないかと思います」とし、当時、進駐軍のホテルを建設していた力道山は外国人と交流があり「その中で一番仲のいい外国人がいて、ユダヤ系の方でかなりえらい人だった。その人がアイデアをくれたんじゃないかなと思う」と示した。その外国人の紹介で当時、進駐軍に慰問に来たプロレス興行を観戦し「そこから何かを得たと思う」とプロレスへの転向を決断し、その外国人の紹介で米国へプロレス修業へ行ったとの見解を示していた。

 57年に米国へ初めて渡り、1年間で2度、渡米した。百田は、父の体形が大きく変わったことが今も忘れられないという。「米国へ行く前は力士だったから、腹ぼての感じだった。米国から帰ってきた時に腹がシックスパックになっていた。たった1年であれだけ体形が変わったっていうことはものすごい練習したんだと思います。たった1年でレスラーの体形に変わった。それだけ思い入れがあったんだと思います。父はやるときは自分に厳しかった」と振り返った。

 力道山は54年2月に蔵前国技館で柔道で史上最強とうたわれた木村政彦とタッグを組んでシャープ兄弟と戦った。この試合が日本で初めてのプロレスの試合とされている。百田は「この試合をNHKと日本テレビに映像を撮らせているんです。事前にテレビ局に売り込んだんですね。米国に行ってテレビというもの接して、これかはテレビの時代になると父は感じたんだと思います。その才覚はすごいなと思う。プロレスの隆盛があったのは、その時、父がレールを作ったからだと思います」と話した。シャープ兄弟との一戦は、蔵前国技館で2連戦として行われた。会場で見た百田は「初日は超満員じゃなかったんです。それが翌日の2日目は満員札止めになった。それもテレビの影響だった」と明かし、「父のチョップで外国人が倒れたらウォーっていうどよめきのような歓声が忘れられない」と振り返っていた。

 力道山は54年12月に木村政彦と戦った。昭和の巌流島と呼ばれた一戦は、力道山が顔面蹴りのラッシュでKO勝ちした。この試合も生で観戦した百田は「故意じゃないと思うんですが、木村さんの蹴りが金的に入ったんです。その時に父の顔色が紅潮して赤く染まった色から一瞬で青白く顔が変わった。その時に一番怖い父顔の視線が出た。やばいと思った」と生々しい記憶をたどり、そこから木村の顔面にパンチ、蹴りをラッシュした姿を目の当たりにした。「木村さんは、一回の反撃もできなかった。客席はシーンとなった。木村さんは見る影もなかったですから。顔が倍ぐらい腫れ上がった」と振り返り、自宅に帰ってきた力道山も「緊張感あった。父のそばに寄れなかった。相手のことは一切言わなかった」と明かしていた。

 力道山は63年12月15日に39歳で化膿性腹膜炎で急死した。亡くなる1週間前に赤坂のナイトクラブで暴力団員に刺されたことが原因だった。この日は、大相撲のハワイ巡業の開催を仲介し、そのお礼に横綱の初代若乃花の二子山親方ら相撲協会の親方衆がお礼に来ていたという。「父はそれがうれしくてみんなを連れて赤坂のクラブへ行ったんです」と百田は振り返った。その店で刺され、青山にある山王病院へ行こうとしたが「そこは産婦人科が中心の病院で、その時、外科の医師がいなかった。その医師が手配できるまで家に帰ってきて、手配ができたという連絡を受けてから病院へ行ったんです」と明かした。

 亡くなるまでの1週間、毎日お見舞いに行ったが「静かで今までの父ではなかった」と明かし、急死した時は「どうなるのかと思った。頭の中が真っ白になった」という。プロレス以外で様々な事業を展開していた力道山。「不動産がものすごい多かったんです。その時は相模原にゴルフ場を作っている最中で途中の事業も多かった」とし、その一方で「ものすごい債務があった」と告白。さらに国から通達された相続税の額が「当時でで20何億の相続税でした。父が遺したものは国に全部取られました」と苦笑いしていた。

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