巌流島の決闘後に見せたマサ斎藤さんの小さな笑み

2018年7月17日18時41分  スポーツ報知

 「いのーきぃー!」。少ししわがれた、ドスの利いた叫び声が、今でも耳に残っている。1987年10月4日。プロレス担当記者のはしくれとして、巌流島(山口・下関市、船島)にいた。アントニオ猪木とマサ斎藤による「巌流島の戦い」。日本の格闘技の、歴史的な一戦に立ち会えたことは、31年たった今、思い起こしても胸が躍る機会だった。

 マサさん(若輩ながら、取材では、こう呼ばせてもらっていた)の、猪木を呼ぶ声が、何度も小さな島に響き渡った。午後4時半頃、試合のゴングが鳴った。先にマサさんがマットに上がり、猪木の登場を待ったが、ライバルはリングから数十メートル離れた「控室」代わりの小屋から出てこない。猪木は小屋の陰から、現在ブレイク中のお笑い芸人・ひょっこりはんのように半身をちらりと見せるのだが、すぐに隠れてしまう。じれながら、何度も叫ぶマサさん。すでに駆け引きが始まっている。30分近く続いた2人の“せめぎ合い”に、見守る関係者や取材陣の息も詰まった。

 前代未聞の決闘は、猪木の一言から始まった。巌流島で試合をするという意志は示されたが、その段階では詳細は決まっていなかった。その発言後、次の地方巡業に帯同取材することになった。注目は猪木の相手は誰か。対戦相手の候補にマサさんが挙がっていた。直撃したが、なかなか答えてくれない。それまでに様々な情報が飛び交っていた。早朝に行われる「暁の決闘」とか、前座は一切なし、お客さんは一切入れない無観客試合…とか。様々な質問をぶつけたが、「俺は知らない」とかわされ続けた。

 だが、翌日か、翌々日だったか、移動バスから降りてきたマサさんを再び直撃すると「いいぞ。分かった」と事実上の“受諾宣言”だ。その代わり、マサさんは「砂浜で戦うというのはどうだ?」と“提案”してきた。漫画「タイガーマスク」などで数々のデスマッチを知っていたから、わくわくした気持ちを抑えられず、「では、リングのロープを外す、ノーロープデスマッチなんてどうです?」などと立場もわきまえず悪ノリしてしまった。怒られるかな…と思っていたら「面白いな。よし、砂浜ノーロープデスマッチでなら、猪木と戦おう」と“乗って”くれた。

 それから両雄の「駆け引き」が始まった。期日が当初の予定から1日ずれたり、試合開始は早朝だったり、夕方だったり…。取材する方も、いつ試合が始まるか分からないから、試合当日は朝5時半に巌流島に渡る船に乗って、現地で、いつ始まるか分からない試合に備えていた。関門海峡にある、小さな無人島。宮本武蔵と佐々木小次郎との対決でその名を知られている島で、観光用に連絡船も出ている。試合前日、一度、島に渡ったが、その時、観光用連絡船がなんと、座礁してしまった。決闘を前に、何とも不吉な出来事。こんなことってあるのか…。緊張感が一気に高まった。

 さて、試合当日、島に渡ってから試合が始まるまで、ひたすら待機。だが、小さな島だから喫茶店などはない。自販機があった気がするが、いずれにしても、ただ、ひたすらに待つしかない。午後になって、いささか緊張感がほどけ始めると、誰かが持ち込んだフニャフニャのボールとバットで野球を始める人も。しばらくは暇つぶしで関係者も目をつぶってくれていたが、大きな打球が坂口征二さん(当時は新日本プロレス副社長)に当たりそうになった。「おい、いい加減にしろ」。『世界の荒鷲』の一喝で、島の空気は再び緊張感に包まれた。

 リングは大きな広場の中央に設置され、その四隅に「かがり火」が置かれていた。大がかりな照明が入れられないから、夜になっても試合ができるようにという配慮だった。広場から一段低くなって、砂浜が広がっている。反対側は葦のような植物が茂る湿地になっていた。夕方近くになって、マサさんが到着したとの情報。一方、猪木の情報はまだ届かない。小舟で渡ってくるという。オレンジの光の帯が西の空に下りてきた。猪木が到着したという声に、島がざわめいたが、マサさんがのっそりとリングに向かうと、誰も話をしなくなった。テレビ局と新聞社のヘリコプターの音が耳に痛く、低く飛ぶと強い風がリングに舞う。「かがり火」が大きく揺れた。

 約30分の“にらみ合い”の末、リングで対峙(じ)した猪木とマサさん。両雄は休むことなく、ひたすら攻め続けた。マサさんが乗ってくれたノーロープではなかったが、2人はもつれ合って砂浜の方に落ちていった。見えないところでの殴り合いが続いた。猪木がかがり火にマサさんの体をぶつけた。ダークブルーの夜空に火の粉が散った。試合はマサさんが失神してゴング。2時間5分14秒の死闘だった。

 試合後、気を失っていたマサさんは、下関市内の国立病院に運ばれた。こちらも急いで後を追った。30分ほど遅れて病院に到着。マサさんはどうなったのだろう、大丈夫か、入院か、それとも治療を終えて帰ってしまったか…。そんな思いを巡らせていると、治療を終えたマサさんがロビーに出てきた。頭に包帯を巻いて、下を向いていた。声を掛けると、引きずっていた足を止めて、ベンチに座って話し始めた。体中に痛みがあるのだろう。ゆがめた顔を見て「大丈夫ですか?」と問いかけると、「おお。どうだった?」と逆質問。「どう?…ですか? 試合のことですか?」「そう」「迫力のある、すごい試合でした。感動しました」。敗れた本人に「感動した」はないだろう。だが、戦いの2時間は、まるで映画を見ているようで、思ったことを素直に伝えた。マサさんは、包帯の頭に手をやって、かすかに笑った。

 「痛いよ」

 7月14日に、マサさんが亡くなったと発表された。プロレス取材の現場から離れてからは、マサさんにお会いすることはなかったが、一度仕掛けたら逃れられないと言われた「監獄固め」で相手をグイグイ締め上げる姿と、食事をした際、飲めない記者に無理やり酒を勧める後輩レスラーをそっとたしなめてくれた優しさ、巌流島での叫び、そして死闘後の笑み。ずっと忘れられない。(記者コラム・谷口 隆俊)

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