マサ斎藤さん、2年前にリング復活へかけた情熱…最後までプロレスラーとして燃え続けた人生

スポーツ報知
上井氏(左)とマサ斎藤さん

 日米のマットでトップレスラーとして活躍したプロレスラーのマサ斎藤さんが14日午前1時05分に75歳で亡くなった。

 2000年にパーキンソン病を発症したマサさんは、2016年12月2日に大阪市立城東区民センターで行われた「ストロングスタイル・ヒストリー」でリングに上がった。

 同イベントは、元新日本プロレス取締役の上井文彦氏(64)がプロデュースした。上井氏は、04年に新日本を退社し、その後、自ら興行をプロデュースしてきたが07年を最後にプロレス界から遠ざかっていた。

 転機は2016年だった。当時、還暦を過ぎた上井氏は「もう二度とプロレス界に戻ることはないだろう」と思っていた。そんな時、新日本を退団した金本浩二から「一匹狼には一匹狼の意地がある」と聞き、心に火が付いたという。

 自分が育ってきた新日本プロレスのストロングスタイルの歴史を少しでも伝えたいという思いからトークイベント「UWAI de NIGHT」を開催した。ちょうど、そんな時、マサさんの妻・倫子さんから久しぶりに電話があった。

 マサさんの闘病生活を支える倫子さんは、上井氏に病院についての相談で電話をかけた。知り合いの病院を紹介した上井氏は、その時、マサさんと面会する約束を交わした。マサさんは、99年2月に引退し、2003年に新日本を離脱しWJプロレスへ移籍した。この時から上井氏とマサさんが会うことはなかった。病院を見舞った時、13年ぶりの対面だった。

 顔を合わせると長い間、会わなかった時間は、一瞬で氷解した。病を感じさせないほど、昔ばなしに花が咲き、穏やかな空気が流れた。そして、マサさんは言った。

 「上井、もう一度、リングに上がりたい」

 07年から興行から遠ざかっていた上井氏は「それは無理です」と首を振った。しかし、マサさんの真剣な瞳の輝きに眠っていた思いに火が付いた。

 「あの時、マサさんは寂しかったんだと思います。病気になって誰も訪ねて来てくれなくて…。それが逆に自分の生きた証しをもう1度、刻みたいという情熱になってリングに上がりたいとおっしゃったのかなと思います。ボクにそんなことを伝えたのは、多分、マサさんは、まだボクに力があると思ってそんなことを言ったんだと思います。実際は、そんな力はないのに…。だけど、マサさんのリングにもう一度、上がりたいというその思いを手助けしたい、ボクの中でそこで火が付きました。そして、マサさんのおかげでボク自身、もう1度プロレスに戻ることができたんです」

 そこから大阪の会場を抑え、参加レスラーを募った。イベントのクライマックスは、マサさんがリングに上がり、マイクを持って信条の「Go for broke(当たって砕けろ)」を叫んでもらおうと考えていた。

 そして、久々のプロデュース興行を宣伝してもらうため、旧知の記者がいる東京スポーツへ情報を伝えた。掲載された紙面は「マサ斎藤、リング復帰」。そこには、アントニオ猪木氏がコメントを寄せ「上井がどんなプロデュースをするのか楽しみだ」などと言った言葉が書かれていた。

 「猪木さんのコメントを読んで、これは下手な興行はできないと思いました。それまでは、何試合かやって、最後にマサさんにリングに上がってもらって“Go for broke”って言ってもらえばいいと考えていましたから、何か驚かせないといけないと気合が入りました」

 試合会場は大阪。マサさんと浪速のリングと言えば、87年3月26日、猪木氏との一騎打ちが上井氏の中で思い起こされた。この時、マサさんは海賊男が乱入し手錠をかけられる大混乱の末、反則負け。不完全燃焼の結果に観客が暴動を起こした一戦だ。約30年ぶりにマサさんと海賊男の遭遇がひらめいたという。

 マサさんも上井氏のアイデアを受け入れた。そして、海賊男は誰にするか?を話し合った時、2人が出したレスラーは、まったく同じ名前だった。

 「それが武藤敬司でした。マサさんもボクも武藤敬司しかいないだろうって完全に一致したんです」

 武藤は、突然のオファーに「マサさんのためなら出ますよ」と即答。ギャラは往復の新幹線代のみ。米国修業時代から慕ってきたマサさんのリングへの情熱にかなえるため実質、ノーギャラで快諾した。

 「リングに上がりたい」というマサさんのレスラー魂。そして、その思いをかなえようと奔走した上井氏と武藤を始めとしたレスラーたちの心意気。様々な男たちの熱意が実って迎えた2016年12月2日。しかし、当日、マサさんの体調は最悪だったという。

 「車イスから立つこともできなくて、これは無理なことをしたかなと思いました。とにかくリングに上がっていただければいいと思っていました」

 上井氏は、マサさんの体調を見て、最後の「Go for broke」だけ言ってもらえればと祈ったという。しかし、奇跡が起きた。全試合終了後、リングに続く真っ赤なカーペットが敷かれた花道に車イスで登場したマサさんが立ち上がってリングに上がったのだ。

 そして、マイクを持った。

 「こんばんわ。元気ですか。これはアントニオ猪木のセリフです」

 たどたどしいが、あの野太いマサさんの口調は健在だった。終生のライバル、猪木氏のセリフを再現したジョークは、客席にしっかりと届き、会場は笑いに包まれた。

 「あの言葉は、すべてマサさんが自分で考えたセリフだったんです。当日は、しゃべるのも辛そうだったんですが、リングに上がってあれだけの言葉を言った時、全身が震えました」

 マサさんが起こした二度目の奇跡。上井氏は、リングに上がったことでマサさんの中の眠っていた魂が甦ったことを感じたという。続けて「Go for broke」を叫ぶ時を待った。しかし「Go for…」まで出てきたが、そこから先を発することができなかった。客席から「マサさん、頑張れ」「マサさん、ありがと」の声が飛ぶなか、微妙な沈黙が流れた。その時だった。

 花道の奥から「マサ斎藤!Kill You!」と叫びながら、海賊男が乱入してきた。ビニール傘を手にマサさんへチョップを浴びせ、傘で突きまくり、コーナーにうずくまったところにストンピングで追い打ちをかけた。マサさんが立ち上がろうとするとストンピングを浴びせる海賊男。会場の空気が一気にヒートアップした。相手の技を受けても、体をかきむしりながら立ち上がったマサさん。現役時代を彷彿とさせる姿でマサさんは海賊男に立ち向かった。

 そして、奇跡は三度、起きた。海賊男にチョップをたたき込むと4発のストンピングで踏みつけたのだ。涙を流しながら歓声を上げるファン。同時に武藤が、海賊の覆面を取るとマサさんと抱き合った。見ている者があり得ないと思っていることをやってのけるのがプロレスラーの神髄。ならば、この時、マサさんは「プロレスラー、マサ斎藤」として間違いなく復活した。

 「実は、武藤には当日、海賊男でリングに上がって欲しいとしか言ってなかったんです。リングに上がるタイミング、リング上で起きたことは、すべてアドリブだったんです。そして、それは、ボクがこんな展開になったら最高だな、と思っていたことが現実になりました。マサさんの闘志、武藤の感性、トップを取ったレスラーの凄さを改めて実感しました。そして、プロレスって最高だなって改めて教えられました」

 あれから、1年7か月。マサさんは75年の生涯を閉じた。亡くなる1か月ほど前、マサさんは上井氏に再びこう言ったという。

 「リングに上がりたい」

 マサさんの思いを聞いた上井氏は、来年2月15日に大阪の同じ会場を抑え、準備に入った。まさにその矢先の訃報だった。

 「それまでマサさんは歩けなかったんです。ところが、2月にやりましょうって言ってから、7メートルほど歩けるまでに回復していたんです。マサさんは最後まで夢に向かって闘っていました。もう1度、リングに上がることはかなわなくなりましたが、必ずマサさんのために何かをやります」

 マサさんは、病に冒されてもリングへの情熱を最後まで抱いていた。それは、どんなに敵にやられても体をかきむしりながら立ち上がった炎のレスラーそのものだった。1942年8月7日に生を受けた斎藤昌典さんは、「プロレスラー、マサ斎藤」として75年の人生を貫いた。

 (福留 崇広)

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