長州力、18年前の大仁田厚戦で復帰した理由を告白「材料が出て来た。興行的に考えればやりきれる」

スポーツ報知
長州力

 来年夏に東京で引退試合を行うプロレスラー長州力(67)がこのほど、「WEB報知」の取材に応じ、現役に復帰した当時の葛藤を明かした。

 長州は28日に後楽園ホールでファイナルロード第一弾でプロデュース興行となる「POWER HALL2018イヤー・エンド・スペシャル」に参戦する。同大会では藤波辰爾、マサ北宮と組んでNOSAWA論外、葛西純、清宮海斗と対戦。その後は、現時点では、ふるさとの山口県、宮古島、そして夏に予定する引退試合まで残りは4試合となっている。

 長州は、46歳だった新日本プロレス時代の1998年1月4日、東京ドームで引退試合を行った。引退後は新日本の取締役として現場監督のマッチメイカーに専念していたが、2000年7月30日、横浜アリーナで大仁田厚との電流爆破デスマッチで現役復帰した。引退からわずか2年半で復帰した思いを改めて聞いた。

 「ボクは、あの20年前の東京ドームで終わってますよ。気持ちの部分ではね。でも、じゃぁ、すべて、そこで終わり切れたかったっていったら自分でもちょっと分からないところはあった。東京ドームってああいうところでやっていただいたから、これで復帰っていうのは無理あるなって、なんか頭の中でまとまらない感覚で今まで来てますよね。思っていること、考えていることと体が一致してないですよね」

 20年前の引退は本気でリングから下りることを決断した。復帰は、まったく頭になかった。

 「あれは、その時代の流れが、いい時代っていうか、上に上がったってもう現場を見ていくことには変わらないわけで、下から選手が上がってきている。これだったら、上にいる自分が退いてもいいんじゃないかって、思って、未練もまったくなかったです」

 引退から5か月後に新日本プロレスは、坂口征二から藤波辰爾へ社長が交代した。長州に社長就任の打診はなかったのだろうか。

 「そういうのは全然ない。藤波さんは、生真面目な方だから、なってくれたらいいと思った。オレは気にもなってない。反対にオレだったら(会社は)ブレーキかかっただろうね。そういう才能がないことは、自分でわかってます。オレはやっぱり現場を見る部門が一番よかった。現場は現場で、レスラーはみんな個性があってしんどいけど、言えば言うことを聞いてくれたしやりがいあった。現場監督でまとめるって言っても、選手の立場で言えばたかだか2、3時間、会場で頑張ればいいんですから。2、3時間がんばれなかったら何の仕事してもダメでしょ。体育館入って出るまでのこと。そういうことは当時の選手はみんなわかっていた。ただ、大きな事故もあったからそれはつらかった。あと、全体的にみんながやっていこうというひとつの色には染まりにくいっていうのはありましたよ。ただ、反対に勢いがあったということだし、素材もいましたから、それも時代ですよ」

 社長が藤波に交代しても不満はなかった当時。では、なぜ、復帰を決断したのだろうか。

 「うん…。どっかであれぇって。毎日、巡業に付いて、選手みんなと一緒にトレーニングしているから体は動くわけですよ。それで、毎日、会場で試合を見ているわけですよね。何なんだろうなぁ、何ていうのかな、みんな個性や考えも違って、それもひとつになればいいんじゃないかって思っていたんですよ。だけど、自分が見ていたところでそんなものが教えになるわけじゃないし…とか考えるようになったんですよ。それで、そうやって考えてるってことは自分の中に余力っていうのがあったんでしょうね」

 シリーズに帯同し、現役時代と変わらない練習をやり、そして、試合を見ているうちに見るだけじゃなく自分がリングに上がって見せられることがあるんじゃないかと思い始めた。そして、大仁田から新日本へ参戦したいというオファーが入った。長州は大仁田の存在を「材料」と表現した。

 「だったら、その時にそういう材料が出て来た時に、あぁ、だったらこれをいじるというか、お互いにアクが強いキャラで来ているし。これが他の選手だったらどうなるのかなって、ひとつは間違いなく興行的には考えますよね。他にいなかったと思います。あれが橋本なのか蝶野なのか武藤なのか。ちょっと色が違うなっていう部分がありましたよね。アクの色がちょっと違うんじゃなかって。その時、アレルギーみたいな、団体的にはあれは避けてくれっていう人たちもいたし。でも興行的に考えればやりきれるっていう。そういうのもありましたね」

 大仁田という猛毒を飲み込むのは、自分しかいないと決意した。そして、プロモーターとして「長州力対大仁田厚」のマッチメイクは興行的に成功すると確信した。アントニオ猪木からは猛反対にあったが強行突破し興行的には大成功を収めた。

 「強引に押し切ったっていえば押し切ったかもわからない。猪木会長だけでなくやっぱりありますよ。じゃぁ興行的にどうだっていう部分でいろいろ候補とか上がってましたけど、それは多分やってみないと分からないけど、それにあわせるキャラは、他になかったですよね。オレ自身は(試合の)期間もあいているし不安感もありましたよ。でも、(試合前の)反応もうまくいくっていう反応だけど、その反対もあるしね。だけど、終わってみて、あぁ間違ってなかったですよね。だって興行自体は(成功した)。多分、そうなるなとは思ってました。反対に次のドームにもう一発持っていきたいっていう部分ぐらいまではありましたよ。もっていけるだけのものは作ろうと思えば」

 ならば、大仁田がいなければ、復帰はしなかったのだろうか。

 「なかったかも…いやぁ、分からない。それも言い切れないかもわかんない。(他の相手でも)また現場に戻ってやっていたかもわからない。それで、横浜、その後が東京ドームですよね。勢いづけっていうんじゃないけど、ドームへ勢いづけるっていう部分で材料的には良かったなぁって言う部分はある。彼もあれでもう1試合ぐらいどっかで上げてやれば興行的にはなれたと思いますけどね。興行的なものでどういう感じでいじっていくか、それは本当に会社ではみんなよく考えてましたよね。反対して違和感を示すってそれもわかる。これはここで終えた方がいいっていう部分もあるし、全然いやまだ早いですよっていう意見もある。営業の人間から言えばね。それをあまりしゃべっちゃうと独りよがりになっちゃう」

 横浜アリーナの大成功を受け、長州は大仁田を翌年2001年1月4日の東京ドーム大会まで引っ張って参戦させてもいいと考えていた。しかし、邪道の新日本登場は、長州戦が最後になった。

 「これはボクの考えだけど、その後、彼はもの凄くミステイクしましたよね。あれで彼も終えていればもうちょっと洗えたんじゃないかって思った。何も出ない状態でいくらやってもしんどくなってきますよね。やっていること自体がしんどいことでやってたんじゃないかな」

 結局、長州は「大仁田厚」を語る時に名前を口に出すことはなかった。それだけ複雑な思いを抱いているのだろう。そして、話が佳境に入った時にこう打ち切った。

 「もうプロレスの話をすること自体がしんどい。過去に戻って、ああだこうだって。こういう話もしたくない。思い返して語るのが本当にしんどくて。そのうちヤバイ状態になるよオレ」

(取材・構成 福留 崇広)

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