“過激な仕掛け人”新間寿氏、馬場さんが亡くなった日に霊前へ捧げた手紙を公開…「馬場さんを思いて」

スポーツ報知
手紙を公開した、元新日本プロレス専務取締役営業本部長の新間寿氏

 1999年1月31日に61歳で亡くなった“プロレス界の巨人”ジャイアント馬場さんの没後20年を偲ぶ「ジャイアント馬場没20年追善興行~王者の魂~」が19日、両国国技館で開催される。

 大会は、馬場さんが設立した全日本プロレスを始め、新日本、大日本、プロレスリング・ノアなど各団体が参加するオールスター戦となった。イベントにはリアルジャパンプロレスの新間寿会長(83)も参加する。新間氏は、昭和のプロレス黄金時代に新日本プロレスの営業本部長として“過激な仕掛け人”と呼ばれ、馬場さんの全日本と激しい興行戦争を繰り広げた。没後20年の大会を前に新間氏は、このほど、馬場さんが亡くなった当日に恵比寿の自宅マンションを弔問した事実を明かし、霊前に捧げた手紙を公開。馬場さんとの知られざる秘話を語った。

 1999年1月31日、馬場さんの訃報を関係者から聞いた新間氏は、恵比寿の馬場さんの自宅マンションを弔問していた。

 「女房と一緒に数珠を持って袈裟を巻いて行きました。でも、お棺の中の寝顔も見なかった。その日のうちに馬場さんを思って、私は、お経の文句、日蓮聖人の言葉を入れてある文書を書いたんです」

 実家が日蓮宗のお寺だった新間氏は、亡くなった馬場さんを思い手紙をしたためた。「馬場さんを思いて」と題した手紙の内容を公開してくれた。

 「ああジャイアント、君を泣く。君死に給う事なかれ!

 夢寝に忘れぬ先生の指導を胸に生き抜いた今は、只々夢の中。生死の境を今思う…。古人いわく、魚の子は多けれども、魚となるは少なし。

 菴羅樹の花は数多く咲けども、実になるは少なし人もまたかくの如し。プロレス道に情熱を持つ者は多けれども、大成する者は少なし。鎧を着たる強者は多けれども、戦に恐れをなさざる者は少なし。この世に強靱な肉体と不撓不屈の精神を持ち続け、努力精進して多くの人に夢と希望を与えてくれた人!千載にその名を残し、今から始まる伝説。

 その名は…その名こそ後世までも芳しき名…“ジャイアント馬場”その人なり!   合掌」

 霊前に手紙を供えると新間氏は、数多くの思い出がよみがえったという。初めての出会いは、馬場さんがデビュー2年目の1962年だった。

 「私は1958年にポンジー化粧品という会社に就職し、福岡支店に出張勤務となった。それ以前から人形町の力道山道場でトレーニングをしていたので、何人かのレスラーを知っていたんです。それで、1962年のある日、小倉の体育館で日本プロレスの興行に豊登さんを訪ねていったんだよね。そこでレスラーたちに石鹸を配って回った時に控室の中に何人かのレスラーがいるのが見えて、その中に一際大きい人がいた。それが新人時代の馬場さんだったんだよね。大きい人だなあ!と思った。その後、リキパレスに馬場さんの試合を見に行ったりして、その頃、馬場対猪木も見ました。馬場さんが首固めしながらヒザの上に落とすネックブリーカードロップで猪木さんがギブアップして馬場さんが勝ったのを覚えてます。馬場さんと猪木さんは、デビュー当時から対照的で猪木さんはすでに馬場さんへの対抗心を燃やしていましたね」

 その後、新間氏は、アントニオ猪木氏が1972年3月に旗揚げした新日本プロレスに入社し営業本部長として馬場さんの全日本と激しい興行戦争を展開することになる。

 「NWA総会へ出席しても、誰もが、馬場さんサイドの言うことはなんでも聞くけれども、ニュージャパンの言うことは、何も通らない。だから、同じことをしていたら、馬場さんを超えることは出来ない、何とかしないといけないと思った。「日本一の富士山がいつでも目の前にあるような気がしてた。この富士山を越えるにはどうしたらいいのか。日本第二の山は、南アルプスにある標高3193メートルの北岳です。そこに登ると必ず草鞋をおいてこなければいけないという言い伝えがある。なぜかというと北岳の神と富士山の神が論争をして、オレの方が高いと、お互いが言い合う。すると、もうひとりの神が出てきて大きな大きな竹竿で(高さを)はかったという。そしたら北岳の方が低かったとわかった。それで富士山が日本一の山となり、北岳の神がこの山に登ってくる人間は草鞋をおいていけとなった。草鞋が積もって富士山と同じ高さになる、超えるということなんだよね。その山が北岳だと。そびえ立つ富士山を超えたい。その山がジャイアント馬場であり、我々新日本プロレス軍団は北岳で、なんとしてでも、馬場さんを超えよう、草鞋を積み重ねて富士山を越えようと。それで、一戦一戦アントニオ猪木が闘うことで、その草鞋を増やし、そうすれば、いつかは北岳が富士山を追い越す高さになるだろう。それにはどうしたらいいかと考えたのが、異種格闘技戦であり、IWGPだった」

 新間氏は、1983年11月に新日本を退社し翌84年4月にUWFを設立した。

 「馬場さんにUWFの外国人選手について相談しに行って、私は(1984年)5月になれば新日本とビンスとの契約が切れるから、そうしたらアンドレ・ザ・ジャイアントでも誰でも御大の方に回せますよと言ったんですよ。そうしたら、馬場さんは“じゃあ新間君、最初からそう言ってくれたら自分は協力できる。UWFの最初の(シリーズの外国人)選手はオレが呼んでやる”となった。だから、ダッチ・マンテルとか最初の選手たちは全部、馬場さん経由で呼んでくれたんです」

 様々な溢れる思い出がある馬場さんへの思いを今、こう明かした。

 「人間としてはすごい人だったね。素晴らしい人だった、うん。誠実さがあって。馬場さんにはよく言われたよ。“新間君、オレはアンタの発言でカーッとなりコノヤローと思ってベンチプレスを何回も何回もやったんだよ。そんな気力を引き出してくれた面も多少あるんだな。オレを一時期本当に燃えさせたのは新間寿だった”とね。私は猪木さんが馬場さんを超えるためにいろいろと考えた。が、その道を示してくれたのも、馬場さんだったんですよ」

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