和田京平レフェリー、リング内外で様々な気配りをしたデストロイヤーさんを悼む

全日本プロレスの和田京平名誉レフェリー(64)が8日、スポーツ報知の取材に応じ、7日に米国の自宅で88歳で死去した人気プロレスラー「ザ・デストロイヤー」ことリチャード・ベイヤーさんを悼んだ。
和田レフェリーは、1972年10月にジャイアント馬場さんが設立した全日本プロレスにリングを設営するスタッフとして加入し74年にレフェリーとなり以来、数々の名勝負を裁いてきた。デストロイヤーさんは73年から全日本にレギュラー参戦しており「全日本の中で私のキャリアとデストロイヤーさんの歴史は、まったくスタートが同じです。そして、草創期の全日本にとってデストロイヤーさんなくして全日本はありませんでした。それぐらい偉大な選手でした」と振り返った。
当時、デストロイヤーさんは、馬場さんとタッグを組んで日本人陣営に入るなどの活躍でファンから絶大な人気を獲得した。「外国人選手であれだけの人気が出たのは、デストロイヤーが初めてだったと思います。その活躍を見習ったのがアブドーラ・ザ・ブッチャーであり、スタン・ハンセンでした。デストロイヤーがいたらからこそのブッチャー、ハンセンの人気でした」と和田さんは多大な貢献を明かす。
さらに当時は、積極的ではなかったグッズ販売を促進したのもデストロイヤーさんだった。「今でこそ、試合前、休憩時間、試合後に選手がグッズ売り場に来てサイン会をするのは当たり前になりましたが、あの頃は、そんなことをやる選手は1人もいませんでした。初めてやったのがデストロイヤーだったんです。当時は、試合が始まると休憩時間がなかったんですが、うまく時間を見つけて、グッズ売り場に来てマスクを買ったお客さんにサインをしてました。それを見た馬場さんが、参考にして、後に馬場さんがグッズ売り場でサインをするようになったんです」と話した。
リング上だけでなくスタッフへの気配りも絶大だった。リングスタッフ時代にシリーズが終わると、麹町の自宅にスタッフ全員を招待しバーベキューパーティーを開いてくれたという。「スタッフにも気を配ってくれる素晴らしい人でした。思い出すのは、住んでいた家が大きな屋敷で、場所は麹町で前の日本テレビの近くでした。庭も広くて、すごいパーティーで“外国人ってスゲェなぁ”って感激したことを思い出します」と振り返る。
リング内外で様々な気配りを重ね、デストロイヤーさんは日本のプロレス界に一時代を築いた。
(福留 崇広)