【巨人】ドラ1鍬原、3度目の正直で初勝利!「次はお母さんの前で勝てるように」

スポーツ報知
プロ初勝利を高橋監督(左)に祝福され、笑顔を見せる鍬原(カメラ・中島 傑)

◆日本生命セ・パ交流戦 ソフトバンク4―6巨人(14日・福岡ヤフオクドーム)

 巨人のドラフト1位・鍬原が、3度目の登板で待望のプロ初勝利を挙げた。2度のリードをフイにする苦しい展開だったが、同じくドラフト1位で入団した阿部が、岡本が、そして坂本勇が次々とアーチをかけ、投げては沢村―マシソン―カミネロが無失点でバトンをつなぎ、6回途中4失点のルーキーに白星をもたらした。チームは手ごわい西武、ソフトバンクを相手に2カード連続の勝ち越しを決めて4位に浮上。15日からは交流戦最終カードとなるロッテ戦(ZOZO)に臨む。

 思わぬ初勝利だったから、なおさらうれしかった。鍬原はウィニングボールをぎゅっと握った。「本当に先輩方が勝たせてくれた勝利だと思っています」。5回2/3を4安打7奪三振4失点(自責点3)。ファンの声援に左手で頭をかき、ぺこりと一礼した。

 試合後には「9回2死まで勝ち投手って知らなかったんです」と明かした。2点リードの6回、上林にソロを被弾し1点差とされ降板。この回を投げきらないと勝利投手の権利がないと勘違いしていたのだ。「(6回)途中で代えられて悔しかった」。中井らに説明を受けてようやく理解し、照れ笑いを浮かべた。

 1点リードの2回、松田に2ランを被弾。4回には柳田、デスパイネを連続で歩かせ1死一、二塁とされた。過去2戦はいずれも四球からの失点だった。セットポジションからの課題を豊田投手コーチと何度もビデオで確認し修正してきた。「弱気にならずに切り替えていこう」。上林、松田を得意のシンカーで空振り三振。マウンドで雄たけびを上げた。

 中大時代、結果が出ないと全て人のせいにした時期があった。「捕手の配球が悪い」「打ってくれたらよかった」。1、2年時はリリーフ。先発ができず、結果も残せず「先発しないとプロに行けないと思っていた。そういう欲が出て、周りのせいにしてました」とふさぎ込んでいた。

 3年春になって、我に返った。「チームを背負う投手になった時、こんなんでいいんか?」。考えを「登板したら全ての責任は僕にある」と改め、人一倍練習するようになった。大学初先発の3年春には公式戦初先発で完封し、チームの連敗も阻止した。

 先発になった4年。黒星を喫して、また責任逃れのような言葉を発してしまった。すると中大の関係者を通じて、大学の先輩でもある阿部の言葉が耳に入った。「そんなことを言うようじゃプロに入れない」。もう一度、我に返って気を引き締めた。

 プロに入って1軍昇格が決まった後、その阿部から電話がかかってきた。思わず正座して端末を握った。「待ってるわ」。一言だったが胸が熱くなった。「僕の時に(みなさん)本当に打ってくださる。阿部さん以外にも(中大の先輩の)沢村さんが抑えて、亀井さんもずっと打ってくれて、(シニアの後輩の)岡本も僕の時は打ってくれる。感謝しかないです」

 ウィニングボールは、女手ひとつで育ててくれた母・佐代子さんに渡す。過去2戦は観戦に訪れたが、この日、勝利の姿を直接見せることはできなかった。「次はお母さんの前で勝てるように頑張ります。チームを勝たせてあげられるような投球がしたい」。1勝の重みを胸に、鍬原は腕を振り続ける。(玉寄 穂波)

 ◆鍬原 拓也(くわはら・たくや)1996年3月26日、岡山県生まれ、22歳。3歳で奈良に転居、小3から本格的に野球を始める。大正中では橿原磯城(かしはらしき)シニアに所属、中学硬式日本一を決めるジャイアンツカップに出場。北陸高(福井)では甲子園出場なし。中大では1年春からリーグ戦に登板。持ち球はシンカー、カーブ、スライダー、スプリット。4月26日の2軍・ヤクルト戦で自己最速154キロ。177センチ、76キロ。右投右打。年俸1500万円。

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