【巨人ドラ1高橋優貴の素顔】小学時代に定岡正二氏から1対1指導「縁だったのかな」

スポーツ報知
高橋優貴

 巨人からドラフト1位指名を受けた八戸学院大・高橋優貴投手(21)。最速152キロの速球とスクリューを操り、北東北大学リーグ初の通算300奪三振をマークした左腕は、ひたちなか、東京、青森の地で着実に成長。巨人との不思議な縁を3回にわたって紹介する。

 高橋がいつもテレビで見ていたのは、縦じまのユニホームだった。6歳だった03年、阪神・星野監督が宙に舞った。井川が20勝を挙げ、打線は矢野、今岡、赤星らが躍動。熱狂的な阪神ファンの父・幸司さん(50)の下で育った優貴は、春季キャンプも訪れてサインを集めていた。「僕も野球がやりたい」。野球熱は強まっていった。

 当時の家の前には、日立製作所の工場グラウンドがあった。野球経験のある父と2人でキャッチボールをした。休日には弁当を持ち、茨城県大会を1試合目から最後までスタンドで見た。家では大会のトーナメント表をなぞった。「とにかく野球が大好きでした」。大人たちがソフトボールをしていると、仲間に入れてもらうほどだった。

 巨人との出会いも、03年だった。巨人OBが教える読売新聞社主催の野球教室に参加。定岡正二氏から1対1で指導を受けた。質問大会では「巨人ファンの人?」と聞かれ「阪神ファン」と手を挙げると、定岡氏も「僕もだよ」と笑った。「すごく覚えています。今考えるとそれも巨人との縁だったのかなと」と振り返る。

 中学でも縁は続いた。入団した友部シニアの監督を務めていたのは、元巨人投手の原田明広氏(52)。当時の優貴は身長160センチにも満たなかったが、「投げ方はオーソドックス。いい投手になるなと。いつもボールを持っていて、本当に野球が好きな子でした」と原田氏は言う。

 優貴は「うまくなりたい」と中1から朝練を志願。投球フォームを基礎から教わった。「プロを目指そう」と原田氏から背中を押されたが、“野球好き”なだけでは通用しなかった。チームは同じ左腕がエースを担い、3年間控え。中2秋の東関東大会決勝戦で先発したが、敗れて号泣した。「ずっと悔しかった」

 中3の夏、原田氏とプロ時代からつながりがあった東海大菅生高の若林弘泰監督(52)が、練習試合帰りにグラウンドを訪れた。原田氏が「見てほしい」とブルペンで投げている優貴を紹介し、若林監督の目に止まった。

 元々、高校は寮生活を希望し、東海大菅生への入学を決めた。「(11歳差の)弟の面倒が見られる訳でもないし、自分が家にいた方が迷惑をかける。それに高いレベルの中でやろうと。プロを目指すからには独立しないと何も始まらない」。15歳で地元を去った。入寮した直後。未来の巨人のエースに出会い、衝撃を受けることになる。

 ◆高橋 優貴(たかはし・ゆうき)1997年2月1日、茨城・ひたちなか市生まれ。21歳。田彦小3年時に勝田スポーツ少年団で野球を始める。田彦中では友部シニアで投手としてプレー。東京・東海大菅生では1年夏からベンチ入り、3年夏は西東京大会準優勝。青森・八戸学院大に進学し、通算50試合20勝12敗、301奪三振。178センチ、82キロ。左投左打。家族は両親と弟。

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