【巨人ドラ1高橋優貴の素顔】(下)挫折を繰り返して強くなった

スポーツ報知
大学通算20勝を挙げた八戸学院大・高橋優貴

 八戸学院大に進学した優貴は、1年春からリーグ戦で起用された。大学通算50試合に登板し、20勝12敗。正村公弘(やすひろ)監督(55)は「いい球、強い球は投げていた。絶対勝てると思って試合に出していたけど、勝負どころで勝てなかったというのがあった」と振り返る。

 1年時は怖いもの知らず。打たれても責任は大きくない。だが2年でエースを託され、重責を痛感した。1、2点差でリードしている後半に腕が振れなくなり、負けた試合が多かった。マウンド上で表情を変えると監督からゲキが飛んだ。

 厳しい言葉は愛情でもあった。2年の冬、体が細かった優貴ともう一人の投手を呼び、別室で朝夜の食事を共にした。ベーコン、ハムなどを多く食べさせた。体重は4年間で10キロ増の82キロ。いい体格になった。

 だが3年春、優貴が野球を辞めたいと申し出たことがあった。試合に勝てず情けなくなり、チームに貢献できないことが苦しかった。正村監督は「自分で勝手に決めろ」と告げた。だが、本音ではなかった。非凡な投手と分かっていたからだ。

 「コーチ、同級生には(フォローを)『頼むわ』とお願いした。あんないいものを持って20歳まで野球を一生懸命やってたのに…。プロじゃなくても、社会人でいいところへ入れる。捨てる必要はないと思った」

 優貴は1週間、野球から離れ、両親とも話し合った。毎日、同級生が声をかけてくれた。「やっぱり野球が大好きだと。いろいろな道があったけど、昔から両親に『やったことは最後までやってほしい』と言われていた。周りに支えられっぱなしだなと思います。一つの分岐点でした」

 帰ってきた優貴から弱気は消えていた。4年春、以前から課題だったテイクバックを小さくするフォームへと改良。スクリューの精度も上がり、決め球として使えるようになった。リーグ新記録の301奪三振をマーク。結果を残し、プロ入りのチケットをつかんだ。

 10月28日の明治神宮大会東北地区代表決定戦(ヨーク開成山)では5回2失点で黒星を喫し、アマ野球生活を終えた。涙はなかった。

 「高3の夏に(西東京大会決勝で)サヨナラ負けして、ずっと泣いていた。その時に大学の最後は泣かないと決めていた。だからずっと努力していた。悔しさは人一倍ある。次に生かしていかないといけない。支えてもらった分、結果で恩返ししたいなと思います」

 挫折を繰り返して強くなった優貴。次の舞台は東京ドームへと移った。(玉寄 穂波)=終わり=

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