森保監督は“日本初”のボランチ…長崎日大高時代に「森保メニュー」で築かれた

スポーツ報知
相手に囲まれながらもドリブル突破を試みる高校時代の森保監督(右)

 2020年東京五輪と22年カタールW杯の兼任監督を務める森保一氏ゆかりの人の証言から原点に迫る連載「ハジメの一歩」。第2回は、長崎日大高サッカー部監督として3年間指導した下田規貴(きよし)氏(71)=現・長崎フットボールクラブ代表=が、森保氏によって“日本初”の守備的MF「ボランチ」が生まれた軌跡を振り返った。

 1992年5月、国立競技場が衝撃に包まれた。オフト・ジャパンの初戦。アルゼンチンに0―1で敗れたが、代表初出場で先発に抜てきされた森保が中盤を支配。バシーレ監督やFWカニージャは「日本にいいボランチがいる」と発言し、サッカー後進国だった日本に「ボランチ」のフレーズが一気に浸透した。

 “日本初”のボランチの礎が築かれたのは、長崎日大高での3年間だ。下田監督は「負けず嫌いでボールを奪う必死さ」にほれ込み、1年時から先発に抜てき。県内屈指の強豪・国見高に勝つため、森保中心の練習を始めた。センターサークル付近に立ち、両サイドを駆け上がる選手のどちらにパスを出すかを瞬時に判断。国見高相手に劣勢の展開を想定したカウンター練習を繰り返した結果、ボランチに必要な判断力、さらにロングフィードの技術が磨かれた。この「森保メニュー」は毎日20分以上行われたが、のちに広島や日本代表でともにプレーしたFW高木琢也(現・長崎監督)らを擁する国見高には、卒業まで一度も勝つことはできなかった。

 どんなに練習しても勝てない―。森保は途方に暮れ、やる気をなくした。高2の夏頃、1、2日と練習を休み、最終的には10日連続で部活を無断欠席した。「こんなところでダメになってどうする」。下田監督は、学校から往復2時間かかる長崎市内の森保の実家まで10日連続で“家庭訪問”。しかし、会うことはできなかった。「僕が来るのが分かっていたんだろうね。どこからかのぞいていたらしいけど、家の中にはいなくてね」

 最終的には力ずくで連れ戻したが、森保はそれを機にサボることはなくなった。サッカーで生きる覚悟を感じた下田監督は、高2の冬に卒業後の進路について「一度見てもらいたい」とマツダの強化部長を務めていた今西和男氏に年賀状を出した。同氏はマツダのコーチだったハンス・オフト氏とともに、2度練習場を視察。その縁からオフト・ジャパンの大抜てきにつながった。長崎日大高の3年間がなかったら、日本に「ボランチ」が生まれるのは、もう少し後だったかもしれない。(田中 雄己)

 ◆ボランチ ポルトガル語で「ハンドル」の意。サッカーでは中盤で相手の攻撃の芽を摘み、ゲームを操る選手を指す。現代サッカーでは守備的役割に加え、得点力も求められる。代表的な選手には、元イタリア代表のMFピルロやスペイン代表のMFイニエスタ(神戸)、日本では、MF長谷部誠(フランクフルト)や遠藤保仁(G大阪)らが挙げられる。

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