【鹿島】内田記者が明かすミツオの素顔

スポーツ報知
会見で報道陣の質問に答える小笠原満男

 記者1年目の01年秋、鹿島担当を命じられた。02年W杯を見越して、デスクから「柳沢をつかまえろ(関係を作れ)」と指示されたが、代表エース候補には他紙の記者が張り付き、名刺を渡す隙すら与えてくれない。困っていると、他の記者が近寄ろうとしない22歳の若い選手が目に留まった。小笠原だった。

 ノーマークの理由はすぐに分かった。取材に入ろうとするや車のドアを閉めて、シャットアウト。次の日も、その次の日も同じ。何とか口を開かせようと、自宅からクラブハウスまでの約1時間30分、質問を考えるようになり、手を替え品を替えてぶつけてみたが、すべて返り討ちにあった。

 03年4月、コメントを取らなければいけないことが起きた。試合中に同僚のFWエウレルを小突き、クラブの仲介で2人が面談した。質問の切り出しは「良い話し合いができましたか?」。ドアを閉める音は聞こえず、「はい、できました。理由はどうあれ、してはいけなかった」と返ってきた。

 初めて取材ができるまで1年半を要した。あとで「変な質問に俺は答えないからね。あと知らない人」と笑ったが、まさに派手な言葉を引き出そうとする質問ばかりぶつけていたように思う。純粋な疑問を投げかけるように心がけると、取材に応じる回数も増え、小笠原の考えも、すごさも分かるようになった。

 一見、パスミス。でも、「あれがジャブになって後半のゴールにつながる」と計算ずく。一見、乱闘寸前の行為は「チームにスイッチを入れるためのパフォーマンス」。無口はそのままだが決してぶっきらぼうではなく、相手の穴を見つける目、自チームの状態をつかむ心は繊細なのだと彼の言葉から知ることができた。

 結局、無駄話ができるまで6年、愚痴のようなことを聞けるまで14年かかった。そんな選手のプレーを見られなくなるのは、本当につらい。そんな私の心を読んでか、小笠原はこの日の会見後、車から降りて最後にこう言った。「中学から高校に行くみたいなもんだからさ。またねー」。(01~03、06~17年鹿島担当・内田 知宏)

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