川口能活さん、磐田・田中誠コーチらが伝説作った清水市商の全国制覇…平成6年

スポーツ報知
94年1月8日、全国高校サッカー選手権で優勝を決め優勝旗を持って笑顔で行進する主将の川口

 「平成スポーツあの時」と題し、記憶に残るスポーツトピックスを関係者らの証言から掘り下げていく。第2回はサッカー王国・静岡を代表する清水市商が平成6年(1994年)1月8日、全国高校選手権で5年ぶり3度目の優勝を飾った。元日本代表GK川口能活(43)を始め、現J1磐田コーチの田中誠(43)らJリーガーとなった強力布陣で臨み、前年9月の全日本ユースに続く全国2冠。輝かしい戦績を残したチームの1年間を振り返った。

 前年の93年にJリーグが開幕し、サッカー人気が沸騰していた。当時まだユース組織が整備されていない時代。全国高校選手権大会は、プロへの登竜門として現在とは比べものにならないほどの注目を集めていた。県勢は83年の清水東の優勝以降、この年までに優勝3回、準優勝2回、4強入り1回。静岡学園、藤枝東、清水東、東海大一(現東海大静岡翔洋)などが激しい火花を散らす黄金期を迎えていた。清水市商の大瀧雅良監督(67)は「とにかく県大会を勝ち抜くことが、とても大変な時代だった」と振り返る。

 93年11月20日、選手権県決勝は県総体決勝で3―0と下した藤枝東との名門対決となった。浦和入りしたDF山田暢久(43)らを擁し、リベンジに燃える宿敵に、2年生ストライカー安永聡太郎(42、横浜M入団)の終了1分前ゴールなどで2―0快勝。史上初の新人戦、総体、選手権の3冠を成し遂げた。県内で長年続いた「新人戦で勝つと、選手権は優勝できない」というジンクスも打ち破り、清商は実力で最激戦区の頂点に立った。

 人気も高校のチームとしては空前のものだった。中部地区予選にもかかわらず、同校グラウンド(当時は土)に黒山の人だかりができた。守護神・川口や、F東京入りしたMF佐藤由紀彦(当時2年)やルーキーFW藤元大輔(福岡入団)らが女子中高生から人気があり、試合中には黄色い声援が飛ぶ、アイドルグループのような現象も起きた。

 特に選手権予選で8試合無失点とチームの中心だった川口の人気は、甘いマスクもあり、半端なかった。学校へファンレターがひっきりなしに届けられ、県内で行われた五輪候補合宿に“ギャル”が殺到。選手権後だが電車通学を始めると、同じ電車に乗るために学校の数駅手前で待ち受ける生徒もいたという。「まだ実績があるわけでもないのに、正直言って騒がれることに戸惑いを感じています。プレーに集中することで精一杯」。過熱するファンに「アイドル拒否宣言」したこともあったが、清商はすでに実力と人気を兼ね備えた“伝説のチーム”となっていた。

 選手権本大会は、8月の総体を制した国見(長崎)と同準優勝の鹿児島実とともに全国ビッグ3(3強)と言われていた。特に鹿実との因縁は深かった。総体は準決勝で対戦。相手エースの元日本代表FW城彰二が累積警告で出場停止で「勝てる」と隙が生まれ、大瀧監督は「城というターゲットがはっきりしている方が戦いやすく、欠場がマイナスに作用するかもしれない」と懸念していたという。試合では不安が的中し、1年生FW平瀬智行(鹿島入団)に2得点1アシストを許し、1―4と完敗。4失点は全国大会チームワーストだった。

 大敗後、選手は夜9時過ぎまで自主練するなど目の色を変えて「打倒鹿実」に打ち込んだ。翌9月に全日本ユース決勝で再戦。川口は、1年時にも選手権3回戦で1―2で敗れており「タイトル以上に、同じ相手に3連敗はしたくなかった」と鬼気迫る表情でゴール前に立ちはだかった。当時のポジションでスイーパーの田中、ストッパーだった小川雅己(3年、C大阪入団)らと鉄壁の守りで封じ、延長1―0で雪辱を果たした。

 1勝1敗で臨む選手権では、順当に行けば準決勝での激突となる。だが、初戦から清商はアクシデントに見舞われた。右ウイング清水龍蔵(3年、清水入団)が負傷し、以降欠場となったのだ。静岡代表として翌年のシード権を得る「ベスト4」が至上命令だった。大瀧監督は「目標を達成できなければ、夜行列車で静かに帰ってくることも考えていた」と重圧と戦っていた。

 窮地に獅子奮迅の活躍を見せたのが、川口を中心とする守備陣だった。準々決勝まで3戦連続零封勝利。迎えた準決勝は、鹿実と3度目の対戦となり、2度先行されるが藤元と小川のゴールで追いつく。延長がなく即PK戦へ突入。大瀧監督は「みんな、ヨシカツ(川口)が止めてくれると信じていましたね」と選手の表情から読み取った。そして4人目を、川口が右に飛んで止めた。

 決勝は4万5千人の大観衆の前で前回覇者・国見と激闘を繰り広げた。1―1で迎えた後半32分、オフサイドトラップの裏を突いたMF鈴木伸幸(3年)が右ハーフボレーでV弾を撃ち込んだ。筑波大へ進み、現在桐陽高サッカー部監督の鈴木は「県を勝ち抜くことの方が難しく、逆に全国ではプレッシャーを余り感じず戦えた」と振り返った。

 JR清水駅前銀座での凱旋パレードには約3万人が詰めかけ、川口は「もし負けたら清水に帰ってこられないというプレッシャーを励みに、11人だけでなく全員で頑張った」とあいさつした。輝かしい戦績の原動力は、チームの一体感だった。93年4月、1年生を除く全選手が3日間、練習を休む事件が起きた。「練習メニューを選手に告げなかったことが不信感につながった」。大瀧監督は川口主将と話し合い、ホワイトボードをグラウンド脇に置き、練習計画を全員が分かるようにした。ボイコットした選手に監督の苦悩が伝わり、連帯感が生まれた。

 その源は、清水で培われた。川口と磐田、日本代表でプレーした田中は言う。「小学校から清水FCメンバーの気があった仲間たちと、清商でも同じサッカー観で戦えたことがよかった。(清商では)技術はもちろん、大瀧先生の指導で人間性も培われた。当たり前のこととして人のためにプレーしたことが、たくましくなれた一因だと思う」。清商魂が大きな輝きを放った時代だった。

 ◆清水市商 1922年に開校し、サッカー部は51年4月に創部。これまで全国大会は選手権が3度、総体が4度、全日本ユースは5度の優勝を誇り、多数のJリーガーを輩出した。主なOBは風間八宏(J1名古屋監督)、名波浩(J1磐田監督)、大岩剛(J1鹿島監督)ら。2013年4月、県立庵原と統合。現在は清水桜が丘となる。

 ◆担当記者が見た

 守護神のビッグセーブに何度も鳥肌が立った。対戦した強豪校のストライカーが「(川口が)ゴール前に立つと入る気がしない」と漏らしたこともあった。ポジショニングから完ぺきなキャッチング、正確な判断やコーチングなど全てに穴がない。国見戦の先制点は精度の高い前線へのフィードから生まれた。

 天才肌で高校サッカー史上最強GKと評価された。しかし、大瀧監督は「川口は努力することができる才能をもらった」と話した。午後9時過ぎに近隣住民から「照明を消し忘れ」と連絡が入って大瀧監督が自宅から駆けつけると、まだ川口がいた。遠距離選手が寮生活した旅館「日本閣」での夕食は毎日最後だった。

 J7チームから勧誘を受け、日本代表GK松永成立(浜名高出)がいる横浜Mを選んだ。即戦力として期待するチームもあったが、大瀧監督には「あえて行くことを決めました」と伝えたという。五輪やW杯で伝説を作り、昨季現役引退。去就は未定だが「第2の川口」育成を期待したい。(青島 正幸)

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