【Bリーグ】“ミスター・ナイナーズ”仙台・志村GM「仙台でプレーする意味感じて」日本一つかめ

スポーツ報知
コートの脇から真剣な表情で試合を見つめる仙台89ERS志村GM(後方右、2月24日の信州戦から)

 男子プロバスケットボールB2・仙台89ERSの志村雄彦ゼネラルマネジャー(GM、36)は、2008年から昨季まで仙台のポイントガード(PG)として活躍した。東日本大震災や、その影響でチームが活動休止を余儀なくされる苦難を乗り越えた“ミスター・ナイナーズ”は、将来の日本一と震災を通した経験の継承の両面からチーム強化にいそしんでいる。(取材・構成=遠藤 洋之)

 生まれ育ち、そして選手として最後の時を過ごした仙台を強くしたい。昨夏、現役を引退し、今季からGMとしてチームを束ねる志村さんの思いは強い。

 「震災から様々なことを学んだ。チームの歴史には『活動休止』の形で東日本大震災が残っている。それを風化させないためにもチームを強くしたいし、思いを継承していきたい」

 あの瞬間。志村さんら、チームは週末にbjリーグの試合が予定されていた新潟に向かう途中で、東北道の菅生パーキングエリアにいた。休憩中で出発を待つバスの中で起きた、今までに経験したことのない大きな揺れ。収まった後に出発したが、バスのテレビでは信じられない光景が映っていた。

 「仙台空港が津波にのまれるニュースを見て、言葉が出なかった。高速も通行止めになって一般道で新潟に向かったけど、試合は中止。12日に仙台に戻って来ましたけど、(停電で)暗く、どこからが仙台の街だったのかが分からなかった」

 練習もできる環境にない。仙台に加え、埼玉、東京の3チームが同シーズンの活動停止を発表。志村さんは、所属選手の救済措置として琉球にレンタル移籍した。仙台のファンに思いを届けたい。一時、チームを離れるメンバーに志村さんはある提案をしていた。

 「(レンタル)移籍先で背番号を(仙台のチーム名でもある)89にしようと言いました。離れても89ERSに対するメッセージを送りたかった」

 シーズンを終え、仙台の活動再開が決まった。震災発生からわずか3か月。うれしい反面、志村さんには不安も残っていた。震災以前のようにプレーができるのか。震災のダメージが残る中、見に来てくれるファンはいるのか。だが、その不安はファンとの触れ合いの中で薄れていった。

 「被災地でクリニックなどをして、人と人とのつながりを感じることができた。地域の人の思いも感じ取れたし、今までより視野が広くなった。苦しんだことも多いけど、だからこそ長く仙台というチームでプレーができたと思っています」

 チームは毎年のように選手が入れ替わる。現在、震災を経験している選手はわずかだ。思いを共有するため、今季開幕前に南三陸町で合宿を実施。実体験を語り部に伝えてもらうなどして、震災に向き合う機会を設けた。

 「支えてくれる皆さんのためにも、選手は仙台でプレーする意味を感じてほしい。『震災を経験した人と人との助け合いやチームワークの精神を、バスケットボールで表現する』ことがチームビジョンですから」

 ◆志村 雄彦(しむら・たけひこ)1983年2月14日、仙台市生まれ。36歳。将監(しょうげん)中央小3年からバスケットボールを始め、仙台高で2、3年時に全国高校選抜優勝。慶大でも4年時に全国大学選手権を制し、MVPを獲得。2005年に東芝に入社し、06年全日本選手権優勝。08年にbjリーグ仙台89ers入団。震災直後に琉球にレンタル移籍した時期を除き、17―18年シーズンまで仙台でプレー。引退後はチームのGMに就任。160センチ。

 ◆仙台89ERSと東日本大震災 2005年のbjリーグ発足とともに参戦。10―11年は東地区2位だったが、3月11日の東日本大震災で同17日に活動休止を発表。選手の多くは救済措置で他チームにレンタル移籍した。活動休止は当初1年間を予定していたが「ブースター有志の会」がリーグに2万587人分の署名を提出。11―12年シーズン開幕前に仙台市体育館も復旧し、リーグに経営計画書を提出、経営状況を随時報告するという条件で復帰が決まった。南三陸町など被災地にはオフシーズンにクリニックで訪れ、今季開幕前にはキャンプも行った。

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