村田諒太がリングから届けたかった「人と人とのつながり」…天国の恩師・武元先生からもらった教え…

スポーツ報知
王座陥落し、顔を腫らせながら取材に応じた村田諒太

◆プロボクシング世界戦 WBA世界ミドル級タイトルマッチ ○同級3位・ロブ・ブラント(3判定0)王者・村田諒太●(10月20日、米ネバダ州ラスベガス・パークシアター)

 【ラスベガス(米国)20日=飯塚康博、浜田洋平】村田諒太(32)=帝拳=が、王座から陥落した。同級3位の指名挑戦者ロブ・ブラント(28)=米国=との2度目の防衛戦で0―3の判定負け。将来のビッグマッチ実現にはKO勝利が必要だったが、夢に描いていた本場・ラスベガスのリングでベルトを失った。再戦の可能性を残すなか、今後は未定とした。村田の戦績は14勝(11KO)2敗、ブラントは24勝(16KO)1敗。国内ジム所属の世界王者は4人となった。(観衆2782)

 世界王者の勲章に別れを告げた。中学時代から夢に描いたラスベガスのリング。村田は判定結果が響いた瞬間、小さくうなずきながら潔く拍手を送った。「もう完敗ですね。自分のボクシングの幅の狭さを痛感した」。紫色に腫れ上がった顔が物語る王座陥落。肩の荷を下ろすように、重圧の詰まったベルトを手放した。

 スピードについていけなかった。序盤から猛烈に手数を増やす挑戦者にポイントを献上。右をかわされ、空いた場所に左ジャブをくらった。「相手が速くて当たらなかった。そこが一番(の敗因)」。主催者によると、的中数は180対356。倒さなければ負けの窮地に、最終12回は右ストレートで一撃KOを狙いにいった。

 練習や合宿、イベントなどで予定はびっしり。9月初旬に風邪を引き、練習メニューを変更。調整に難しさはあったはずだが「100%追い込んだ」と否定し、言い訳は一切しなかった。最後のゴングまで敵を追う姿に、日の丸を握りしめる観衆が立ち上がって沸く。しかし、無情にも拳は空を切った。

 世界王者となって1か月が過ぎた昨年11月。京都に眠る南京都高(現・京都広学館高)時代の恩師・武元前川監督の墓前で手を合わせた。「タイトル取れました」。だが、先生は素っ気なかった。「『ああ、おめでとう、よかったな』だけ。先生にそう言っても、いつも『よかったじゃねえかよ』で終わりだった。自慢げに言ってくれるわけではない」。亡くなって8年。厳しかった先生の一番の教えは「人とのつながり」。人生の指針となった。

 この夏、教えに気づかされた。8月に高校時代の同期の試合を観戦。後楽園ホールで太い声を張り上げて喉をからした。「スポーツには、人を感動させる力がある。でも、僕にとっては自分がプレーしている時に感じるものじゃない」。肩を寄せ合い、隣で必死になって声援を送る仲間たちがいた。一つになった固い絆。「つながり」を感じる瞬間だった。

 「人と人とのつながり、僕と武元先生のような関係をつくっていけるような選手になりたい」。だからこそ、大観衆が熱狂するビッグマッチを目指した。敵地でこの日「U・S・A!」コールが響けば、対抗心に燃える「む・ら・た!」の声が爆発した。数で劣るが、音量で勝る一体感。「実力が届かなかった。ただ、多くの日本人が来てくださった。うれしかった」。一人一人の心はつながっていた。

 今後については「そんなにすぐに答えの出ることじゃない」と進退を保留した。世界選手権の銀メダル、五輪金メダルからプロで世界王者、ミドル級の防衛成功…。拳一つで日本人未踏の地を切り開いてきた。期待を背負い、重圧と闘った日々は、ひとまず終わる。恩師の墓前で最後に伝えた言葉は「また、頑張ります」だった。よかったじゃねえかよ―。厳しかった先生も寄り添ってくれるだろう。(浜田 洋平)

 ◆村田 諒太(むらた・りょうた)1986年1月12日、奈良市生まれ。32歳。中学1年でボクシングを始め、南京都高で高校5冠。東洋大、同大学職員で全日本選手権優勝5回。2011年世界選手権で銀メダル。12年ロンドン五輪ミドル級で日本勢48年ぶりの金メダル。13年8月にプロデビューし、17年10月にWBA王座奪取。18年4月にミドル級では日本人初の防衛成功。身長183センチの右ボクサーファイター。家族は妻と1男1女。

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