【箱根への道】拓大の留学生主将・デレセの夢は恩師の胴上げ

◆拓大 前回8位(6年連続40回目)、出雲4位、全日本不出場
異例の留学生主将が拓大を初優勝に導く。前回2区で8人抜きの快走を見せたワークナー・デレセ(4年)が4年連続でエース区間に起用されることが濃厚。4月に主将に就任すると、出雲駅伝では3区区間賞で過去最高の4位に貢献した。エチオピアから来日4年目。言葉や文化の壁を乗り越え、チームを心身ともに引っ張る男が箱根路での激走を誓った。
ダイナミックな走りと熱いハート。デレセは主将として、走りも気持ちも先頭に立つ。「留学生がいるのに勝てない、と言われるのが嫌」。今季は1万メートル、ハーフマラソンで自己記録を更新。2区区間賞は手にしていないだけに「狙いたい」と自信を見せる。
「次の主将はデレセしかいない」と岡田正裕監督(73)が指名。指揮官は「今は『留学生』という意識はない。立派な日本人ですよ」と目を細める。母国・エチオピアでは中距離選手だった。「長距離走に慣れてなくてね。速いはずだ、というこちらの先入観もあった」と来日当初を振り返った。
デレセも「1年目は『辞めたい』と思ったこともありました」と明かした。初の1万メートルは最後尾で走り出し、不完全燃焼でゴール。右も左も分からない地での生活に「やっていけるだろうか」と人知れず涙したこともある。しかし、昼休みに個別授業で日本語を学ぶと、来日後半年で買い物や銀行に一人で行けるようになった。「趣味は勉強」という勤勉さは走りにも表れ、日本人と同じメニューをコツコツとこなした。「岡田監督はこんな自分でも、怒らずに走らせてくれた」。学年が上がるたびに走力もアップした。
留学生の主将就任にチームメートは当初、聞く耳を持たなかった。しかし、ミーティングで「ケガした時こそ、速くなるために努力しよう」など積極的に発言。時には「主将だから、走らないとチームに悪影響」と痛みを押して走ろうとするデレセと「無理してもケガが悪化する」となだめる田村崚登主務(4年)がケンカすることもあった。責任感は人一倍だ。
卒業後は実業団・ひらまつ病院で東京五輪マラソン代表を狙うが、その前にかなえたい夢がある。「岡田監督じゃなかったら、自分はここにいない。喜んでくれる監督を、最後は胴上げしたい」。恩返しを誓う青年の横顔は精悍(せいかん)だった。(太田 涼)
◆ワークナー・デレセ 1995年7月23日、エチオピア・アディスアベバ生まれ。23歳。小学生の頃から走り始める。2015年、メダニアレム高から拓大国際学部に入学。箱根駅伝は3年連続2区を走り1年11位、2年2位、3年5位。1万メートルの自己ベストは28分14秒49。169センチ、51キロ。好きな食べ物は納豆。
◆拓大陸上部 1921年創部。箱根駅伝は33年に初出場。最高成績は総合7位(11年)、往路4位(18年)、復路4位(11年)。出雲駅伝は18年の4位、全日本大学駅伝は98年の3位が最高。長距離部員は選手56人、学生スタッフ12人。タスキ色はオレンジ。主なOBは12年ロンドン五輪男子マラソン6位の中本健太郎(安川電機)、同代表でプロランナーの藤原新。
◆戦力分析 苦手としていたスピードに磨きをかけ、出雲駅伝で過去最高の4位に食い込んだことがチーム全体に自信を植え付けた。全日本大学駅伝はミスもあり予選会敗退となったものの、1万メートル28分台4人をそろえた。前回5区の戸部、6区の硴野(かきの)ら山に経験者がいることも大きい。
2区でデレセの力を十二分に発揮するためにも重要なのが1区。5000メートル13分台を持つ馬場らを起用して流れに乗りたい。チーム初の2年連続シード権へ、岡田監督は「亜大で優勝した(06年)のと似た雰囲気がありますね」と手応えを感じている。