15歳・田村亮子デビューV〈3〉「ジュニア3強」に全て一本勝ち

スポーツ報知
1990年の福岡国際で優勝した田村亮子。各国選手団も注目(左は島谷順子日本代表コーチ)

 田村(現姓・谷)亮子が全国にその名をとどろかせた1990年の福岡国際女子柔道。だが、亮子は柔道関係者には、その2年前から鮮烈な印象を与えていた。

 中学1年の88年、福岡大で行われた全日本合宿を見学する機会に恵まれた。「礼儀として、柔道着を着て見学した方がいいと自分で判断しました。じっと稽古を見つめる私に、全日本のコーチが『稽古に入ってみる?』と声を掛けてくださった。図らずも乱取りに参加できて光栄でした」。胸を貸してくれたのは、当時高校生でジュニアのトップ選手。白帯で140センチと小柄な中学生が相手になるはずもない。周囲の思いは、両者が組んで間もなく覆った。亮子の背負い投げで、相手はあっという間に宙を飛んでいた。

 亮子が子供の頃に乱取りをしたことがある講道館の上村春樹館長は「彼女が何よりすごかったのは、反応時間。めちゃくちゃ速かった。ランプがついた所をタッチする測定器を使うのだが、ランプがついてから飛び上がるのではなく、彼女はすぐに動けるよう常に準備していた」と“強さ”の秘密を明かした。

 翌89年夏、亮子はフランスでのジュニア合宿に参加した。「生まれて初めて親元を離れて、10日間も海外で過ごした。実はホームシックで夜、寂しくなって2段ベッドの下で泣いていたんです。忘れもしません」。パリなど大都市ではなく、ノルマンディーに近い北部のウルガットという小さな町。14歳になる直前の女の子だから無理もない。

 だが、いったん畳に上がると、すさまじい才能を発揮した。ある日、フランスチームとの練習試合が行われた。5対5の団体戦。フランス女子代表の村上清ヘッドコーチは、白帯の亮子を見ながら「けがはさせるな」と先鋒(せんぽう)の選手を送り出した。多くの金メダリストを輩出した日本人指導者は、その直後に目を大きく見開いた。

 亮子の背負い投げで、まな弟子が背中から落ちた。「ジュニアの3番手を出したんだけど、あっさりと負けた。そこで、今度は2番手に『勝てよ』と言って送り出したら、大内刈りでまた負けて…。最後はトップの選手を当てた。でも、負けちゃった。3試合とも一本勝ちや。あんな小さいのに、田村は本当に強かった。速かった。技をかけたら、ついていってバーンと倒す。『こんな怪物、おったんか…』と思いました」

 福岡国際より1年以上も前のこと。すでに世界の強国を打倒・亮子へ「本気」にさせていた。(谷口 隆俊)

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