15歳・田村亮子デビューV〈4〉「無理」「極限」超える精神力

スポーツ報知
右膝の痛みに耐えながら前人未到の世界柔道5連覇を決めた田村亮子(共同)

 2011年、谷亮子(旧姓・田村)はパリのオペラ座で国際柔道連盟から「史上最優秀女子選手賞」を受けた。連盟60周年を記念して創設された最も栄誉ある賞で、贈られた選手はこれまで、世界でただ一人だ。

 1990年の福岡国際で初優勝後、五輪連覇(2000年シドニー、04年アテネ)、世界選手権7度、福岡国際12度、全日本選抜体重別14度の優勝…。過去に例を見ない実績とともに、けがをも克服するすべを知り、強じんな精神力を持つ選手でもある。95年、右膝じん帯を部分断裂しながら全日本選抜体重別V5、右肩痛に耐えて世界選手権連覇。99年福岡国際では決勝でアマリリス・サボン(キューバ)に左手小指を脱臼(実は軟骨骨折と屈筋けん損傷の重傷)しながら勝ち、10連覇を決めた。

 2001年ミュンヘン世界選手権は「柔道人生、最初で最後の『無理だ』と思った大会」だった。直前の練習で、隣で乱取りをしていた選手の体が右膝を直撃。内側に曲がり、内側側副じん帯部分断裂、半月板損傷の重傷を負った。「技をかける感覚が分からなくなるから、痛み止めは初戦からは打たず、準決勝からと決めていました。1回戦で内股をかけた瞬間、激痛で立てなくなり、一時試合が中断するも戦略を変えて一本勝ち。その後、激闘と激痛が入り交じる中、勝ち上がって、決勝は北朝鮮のリキョンオク選手。既に足がマヒしている極限の中での試合となりました」

 当時、世界選手権は2年に一度で5連覇なら男子の藤猪省三、女子のイングリッド・ベルグマンス(ベルギー)の4連覇を抜く前人未到の快挙。勝利への執念が何よりの“痛み止め”となり、攻め続けた亮子に2人の副審が旗を揚げた。

 柔道へ強い思いは不可能を可能にする。小3の時、九州大会前日に40度の高熱を出しながら、試合に出るとの一心で一晩で熱を下げたという。「団体戦の先鋒(せんぽう)に決まっていたし、東福岡柔道教室には強い子がいっぱい、いた。(師範の)稲田(明)先生から『やめとけ』と言われましたが、『分かりました、熱を下げます』と」。稲田師範は「私も諦めたのですが…。でも、厚着して汗をかいて…。翌日、熱が下がったんです」と仰天した。

 「小学生の時に学んだことは熱の下げ方でした。その後、けがとの向き合い方や治し方、テーピングの巻き方までも自分で考え、工夫してきました」。神様は乗り越えられない試練は与えない―。アトランタ五輪銀の失意から立ち直らせてくれた言葉を、亮子はすでに8歳から実践していた。(谷口 隆俊)

スポーツ

×