15歳・田村亮子デビューV〈5〉「亮子は柔道界のモーツァルト」「遺伝子研究したい」の声も

スポーツ報知
11年、パリのオペラ座で国際柔道連盟から「史上最優秀女子選手賞」を贈られた谷亮子さん

 女子柔道48キロ級世界女王カレン・ブリッグス(英国)に準決勝で勝ち、初優勝した1990年の福岡国際について、田村亮子(現姓・谷)は「柔道人生の中で、私の試金石となった大会。その後も(試合前には)動きなど、この大会と比較して」自分を見つめ直した。

 優勝したその日のうちに“世界”が動いた。亮子は試合後のパーティーで、韓国のコーチで来ていたある五輪金メダリストから「韓国からオリンピックに出ないか?」と勧誘された。「日本の五輪代表になってからでは遅いから」との誘いは、あながち冗談ではない。亮子に関心を寄せた国は他にもあった。

 米国関係者は「タムラを遺伝子レベルで研究したい」と申し込んできた。何年か後に「遺伝子を調べたいので血液を採取させてほしい」と正式に書面で依頼されている。「柔よく剛を制す」の言葉通りに、小さな体で欧米のパワー柔道に勝ち続ける秘密を、強国は真剣に知りたがった。

 世界のライバルたちは亮子をリスペクトした。「一番強かったのはブリッグス選手。彼女という目標があったから、今の私がある」。92年バルセロナ五輪ではブリッグスが肩を脱臼するほどの死闘を演じて勝っている。その後、来日した世界女王から「次はリョウコが世界を引っ張っていく番だからね」と託された。「憧れで尊敬する人から言われて光栄でしたし、その後のモチベーションにもなった。彼女の世界選手権4度優勝を超えたい、それが言葉をかけてもらったお礼になると思った」

 バルセロナの決勝で戦ったセシル・ノワク(フランス)は後に「タムラの技は素晴らしい。柔道界のモーツァルト。天才だ」と絶賛。予想をはるかに超えた連続技に終始劣勢だったことは、ノワク自身が分かっていたようだ。12度も挑戦を退けたアマリリス・サボン(キューバ)とは友情が芽生えた。「日本が好きで、娘さんに『サクラ』ちゃんという名前をつけたんです」

 亮子は世界選手権の連覇を6まで伸ばし、その後出産、すぐに復帰し、2007年リオ大会では「ママでも金」を有言実行して世界V7を達成した。その偉業のおかげで試合会場に託児所が設置され、国から助成されるなど、長年にわたりスポーツ界に大きな影響を及ぼした。当時、世界選手権は2年に1度だから、デビュー戦から実に20年近くも世界のトップを走ってきたのだ。

 13年には世界殿堂入りを果たした亮子。福岡国際に「白帯のまま出たかった」と話した15歳の少女は今、講道館柔道6段に飛び級で昇段した。後に続く柔道家に希望を託し、腰に紅白帯を巻く。(谷口 隆俊)=敬称略、おわり=

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