オウムサリン事件 本紙担当記者が感じた恐怖

スポーツ報知
95年3月22日、上九一色村の施設を強制捜査する機動隊員

 ◆教団総本部へにじり寄り

 23年前の世紀の事件が発生した時、ちょうどタクシーに乗っていた。2週間後の、青島幸男さんが当選することになる都知事選を控え、候補者夫人のインタビュー取材に向かっていた時、車内のラジオから事件を伝える緊急放送が流れていた。

 ただごとではなく、とてつもない事件、それがオウム狂騒曲の始まりだったことは、サリンというキーワードから推察され、行き先を急きょ南青山の教団総本部に変更した。しかし、まだ疑惑の始まり。教団の建物にタクシーを横づけすることをためらい、坂の上の手前で降車した際、何人もの報道記者が同様に、恐る恐る教団の様子をうかがい、少しずつ、にじり寄るように建物に近づき、取材を始めたのを覚えている。

 それから約2か月後。教祖逮捕の朝、その南青山の教団総本部で上祐史浩氏が緊急会見するとしながら、杉並道場に場所を変更。理由が明らかにされないまま向かう途中、会見場でサリンをまいて報道陣を道連れにするテロ行為が頭をよぎった。不気味で、見えない恐怖と敵。オウム犯罪に巻き込まれた人たちの長きにわたる苦しみは、そんな生易しいものではなかった。

 ◆ここで呼吸していいのか

 オウム真理教の取材は見えない恐怖との戦いだった。地下鉄サリン事件の日は霞ケ関駅に急行した。サリンがまかれたと聞き、「ここで呼吸していいのか」と思わず息を止めた。

 秘密アジトといわれた場所の取材。現場に近づいた瞬間、何かを感じた。振り向くと短髪の男がこちらに向かい、走ってきた。「拉致される!」全速力で現場を離れた。当時、教団は目黒公証役場事務長監禁致死事件の関与がささやかれていた。「危なかったら逃げていい」とデスクに言われていたのだが、あの男が信者だったのかナゾのままだ。

 松本智津夫死刑囚逮捕の日は上九一色村にいた。「最後はサリンをまいて自爆するんじゃない?」と友人らは軽口をたたいていた。テレビでは、米国の宗教団体が捜査直前に施設ともども爆死する映像が何度も流れた。会社からガスマスクが送られてきた。

 情報が少なく、実態がつかめず、薄気味悪かった。そんな思いも、松本被告の公判を傍聴して一変した。法廷では不規則発言を連発。かつての弟子の涙ながらの訴えにも耳を貸さず、責任逃れと現実逃避に終始した。信者も傍聴席で寝る始末。「あの恐怖心は何だったのか」ため息をつくしかなかった。

 ◆襲われたら…目前に信者

 タレント・梅宮アンナの退院取材のため、赤坂見附の病院前にいたあの朝。神谷町で大変なことが起こっていると連絡が入った。しばらくすると、救急車が足りないのか患者が消防車で次々と運ばれてきた。現場まで乗ってきたのは、サリンが放たれた数本前の池袋発丸ノ内線。ぞっとした。

 3日後、上九一色村の第6サティアン前。夜明け前に着くと、辺りは一面の霧。日の出とともに周りが見え始めると、数十メートル先にヘッドギアをつけた信者が行き来する姿が。「今、襲われたら…」焦った。

 5月、送検される松本死刑囚の姿を捉えるために警視庁前にいた。地下駐車場からあがってくるワゴン車の後部座席に見えた“ホンモノ”の姿。無意識にシャッターに力が入った。

 9月、新潟県の大毛無山。捜索は深夜まで続いた。立ち会った岡崎一明死刑囚が姿を見せた直後、静寂の中を担架に乗せられた坂本堤さんの遺体が山道を運ばれてきた。遺体の上に乗せられた花束が見えた時「長かった。やっと終わった」安堵(あんど)した。

 入社4年目。ほとんどを張り込みに費やした半年。サリンにおびえたサラリーマンの目、松本死刑囚の目、捜査員の疲れた目を、今でも忘れない。

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