【#平成】〈23〉スーパーボランティア尾畠春夫さん「仮設住宅がなくなる日まで、休酒続けます」
天皇陛下の生前退位により来年4月30日で30年の歴史を終え、残り1年を切った「平成」。スポーツ報知では、平成の30年間を1年ごとにピックアップし、当時を振り返る連載「♯(ハッシュタグ)平成」を掲載する。第23回は平成23年(201年)。
平成23年3月11日に発生した東日本大震災は、死者・行方不明者約1万8000人以上を数え、7年たった今でも5万人以上が避難生活を強いられている。今年8月に山口県で行方不明の2歳児を救出し、「スーパーボランティア」として注目を浴びた尾畠春夫さん(79)は発生から約2週間後に宮城県南三陸町を訪れ、のべ500日にわたり、被災者の思い出の品や行方不明者の遺骨を探す活動などに従事した。今も気にかける被災地への思い。大分県日出(ひじ)町の自宅で、当時の話と復興への願いを聞いた。(樋口 智城)
「地獄ですわな」。尾畠さんが初めて南三陸の被災現場を見た時の印象だ。「がれきだの何だのが、山の上の方にたまってましてね。潰れた家の人が生きているのか死んでいるのかも全く分かりませんでした」。惨状を見た瞬間、それまで毎晩浴びるように飲んでいた酒を1滴も飲まないと心に決めた。「実際にあの酷(ひど)い状況を見たら、そういう決意もできる。伝聞だけじゃ絶対分からん」
尾畠さんが南三陸で行ったのは「思い出探し隊」というボランティア。鎌などが入った数キロに及ぶ道具カバンを肩に背負い、がれきから被災者の思い出の品を掘り起こす。04年の新潟・中越地震などでの経験を買われ、隊長に任命された。「グラブ、ボール、ぬいぐるみ。毎日数え切れないほど出てきました」
ある時、がけの近くの崩れそうながれきの中に、大きな紙焼きの写真を見つけた。「よく見えなかったんですが、直感でこれは大事なもんやろなと思いました」。ボランティアは保険が利かないので、危険な作業は禁止されているが「それでも諦めきれず、他の隊員を帰して、1人でコソッと取りに行きました」。
水で洗ってみると、小さな女の子の七五三の写真だった。避難所に置いていると、しばらくたって女の子の知り合いが受け取りに来た。「涙を流して喜んでくれました。あれは本当にうれしかったなあ」。その写真の子はどうなったのか、詳細は一切分からないまま。「大切なものを渡せたことだけが必要。余計なこと、聞きませんので」
実は南三陸に入ったのはボランティアが目的ではなかった。「06年に徒歩で日本縦断した時、大量のおこわをもらったおばあさんがいて。電話がつながらないから、安否を確認しに行ったんですよ」。大分から軽ワゴンで60時間かけて駆けつけ、おばあさんの家を見つけた。「お互いに抱き合って20分ほど泣きどおし。体中の水分、どっか行った気がしたなあ」。無事を確認しただけで帰るなんて許せんと思い、そのままボランティアを開始した。
三陸の海岸では、行方不明者の捜索のための遺骨探しにも奔走した。海辺に流れ着いた人骨を、目を凝らして歩き回った。「頭蓋骨は薄いので津波ですぐ粉々になるそうですな」。小さな手足の骨の破片ばかり見つかった。
同行したダイバーに骨を見せると「小さい骨はDNA鑑定できないので、警察に見てもらえない。発見しても意味がない」と言われた。「それはないよ、と思いました。遺族にとって少しでも見つけたいお骨が『帰る場所』もなく『意味』すらないなんて」。難航する行方不明者の捜索にやり場のない怒りを覚えた。
南三陸には断続的に5年間にわたり訪れ、ボランティアを行ったのは合計で500日ほどになった。「経験を踏まえて感じるのは、まだ復興は遠いってこと」。2536人が行方不明のままで、約4万人が仮設住宅暮らしを強いられている(9月現在)。「こういうことが解消されないと、立ち直ったなんてとても言えんのです」。そっと涙をぬぐった。
酒を封印するのは仮設住宅がなくなる日までと決めている。「『断酒』じゃなく『休酒』。あくまで“ちょこっと休む”ってだけですよ」。被災地を思い、少しでも早く解禁できる日が来るのを願っている。
◆謝礼金受け取らず年金生活…尾畠春夫という人
尾畠さんは1993年ごろから自宅近くにある由布岳の登山道の整備でボランティア活動を開始した。15歳の時に立てた「50年働いたあとは好きに生きよう」との誓いに従い、65歳の時に別府市内で営み続けた鮮魚店「魚春」を閉店。以降は生活の軸足をボランティア活動に置いている。
収入は年金のみ。「月5万5000円で何とか生活してますわ~」と清貧を貫く。携帯電話は持っておらず、固定電話も受け専門。「お金がかかるから」一切かけることはない。
長男と長女はすでに40代で、孫も5人いるが、今はJR日出駅から1キロほどの一軒家で一人暮らし。「長男を大学(関西の有名私大)には行かせましたが、それ以降はずっと貯金ゼロですよ~」と豪快に笑う。
ボランティアの現場では「自己完結じゃないと意味がない」という理由で金銭的謝礼は一切受けない。「迷惑をかけられないから」と、自分の軽ワゴン車で寝泊まりする。作業期間はお風呂も一切入らないほどの徹底ぶり。涼しい顔で「風呂なんて年1回でも死ぬことはないですよー」と言い切る。
トレードマークの「赤いハチマキとツナギ」にも訳がある。「赤を着ていると、すぐ周囲から声をかけられるもんで。いろいろ試した結果、赤が一番!」と説明。ただ作業をするだけでない。周囲とのコミュニケーションにも気を使うことこそが、「スーパーボランティア」たる所以(ゆえん)なのかもしれない。
◆尾畠 春夫(おばた・はるお)1939年10月11日、大分県生まれ。79歳。同県や兵庫県での鮮魚店修業や東京都内でのとび職などを経て、63年に別府市内に鮮魚店「魚春」を開業。05年に閉店した。以降は本格的にボランティア活動を始め、11年東日本大震災、16年熊本地震、今年の西日本豪雨などで活躍。今年8月に山口県周防大島町で行方不明の2歳児・藤本理稀(よしき)ちゃんを救出し、時の人となった。
◆東日本大震災 2011年3月11日午後2時46分に発生した、牡鹿半島の東南東約130キロの三陸沖深さ約24キロの地点を震源とするマグニチュード9.0の地震。最も激しい揺れを記録した宮城県栗原市で震度7を観測。巨大津波が発生し、東北と関東の太平洋沿岸に甚大な被害をもたらした。東電福島第1原発(福島県双葉郡)では地震動と津波の影響で炉心溶融、水素爆発を起こして大量に放射性物質が漏えいする事故が発生した。避難者は最大16万5000人近くにのぼった。