宮城・山元町「いちご農園」東日本大震災で全滅 走り続けた8年間

スポーツ報知
イチゴの手入れをする岩佐社長

 宮城・山元町の「山元いちご農園」は3・2ヘクタールのビニールハウスに、23万株のイチゴを有する、東北最大級の観光農園だ。東日本大震災が発生してからわずか3か月後の2011年6月に、岩佐隆社長(64)らが法人として会社を立ち上げ事業を開始。津波で同町の98%のイチゴ農家が被害を受けた壊滅的な大打撃の中、多くの困難を乗り越え、今では国内外の観光客を呼び込むことにも成功するなど、イチゴの町を復活させた。

 ビニールハウスの中に甘い香りが漂う。宮城南部の山元町、亘理町は全国有数のイチゴの生産地だ。3・2ヘクタールと東北一の規模を有する「山元いちご農園」にも、県内外はもちろん、台湾などからの多くの観光客が大型バスで訪れ、イチゴ狩りを楽しんでいる。岩佐社長は「大変だったけど、とにかく走り続けた8年間だった」と振り返る。

 8年前の3月11日。山元町は最大13メートルを超える大津波に襲われた。内陸3・5キロの地点まで到達し、町内のイチゴ農家は98%が被害を受けた。海岸線から150メートルの場所で米とイチゴを作っていた岩佐社長の自宅は全壊し、田畑も全滅した。「最初の1~2か月、農業のことは何も考えられなかった」。避難所に暮らしながら、がれき処理や行方不明者の捜索に追われる日々だった。

 復興が進まず暗い雰囲気が漂う故郷。「以前のように、活気のある町にはどうすればいいか」。自問自答をしてたどり着いたのがイチゴ作りだ。だが、ハードルはとてつもなく高い。津波で農機具は流され、個人経営では再起に億単位の資金が必要だった。土壌は海水の塩分を含み、原発事故による風評被害で、それまでの土耕による栽培は不可能だった。

 導き出した答えは、これまでの“町の常識”を覆すものだった。イチゴ農園としては同町初の法人を仲間4人で立ち上げ、栽培も棚にヤシがらを敷いてイチゴの苗を育てる「高設」式に切り替えた。土地は海から2キロ近く離れながら津波浸水した2・6ヘクタールを借り上げて確保。国の補助金などで運営資金も調達できた。それまではほとんど行われていなかった観光農園化も意識し、ハウス1棟の幅も従来より広い8メートルにして十分に人が歩ける幅を確保し、同年11月から本格的に栽培を開始した。

 念願のイチゴが実ったのは、震災からちょうど1年の12年3月。「当時は(事業の開始が)早すぎる、と言われたこともあったけど、地域の人にも、また作れるんだということを分かって欲しかった」という。その後は、取れたてのイチゴスイーツが楽しめるカフェやワイナリーも併設するなど事業を拡大。17年には7万7000人の観光客が訪れたほか、現在では50人が農園で働くなど、雇用の創出にも一役買った。

 岩佐社長は「これからは全国との競争。新たな担い手を育てることも地域のためには必要だと思います」。震災以前より更に町が活気づくために、精を出してイチゴ作りに励む。

 ◆山元いちご農園 JR常磐線山下駅から徒歩15分、常磐道山元インターチェンジからは車で5分。イチゴ狩りは例年12月から6月中旬で元日を除いて無休。3月からは午前10時~午後4時まで楽しめる。併設のカフェ「BERRY VERY LABO」も元日を除く年中無休で午前10時~午後5時まで営業。ワイナリー見学は1週間前までに予約が必要。宮城県亘理郡山元町山寺字稲実60。電話は0223・37・4356。

 ◆宮城南部の震災被害 平地が広がる宮城南部は津波により大きな被害を受けた。亘理町は最大8メートルで、町内の48%に及ぶ約35平方キロメートル、山元町は最大13.6メートルにもおよび、37%の約24平方キロメートルが津波で浸水。亘理は306人、山元は637人が死亡(関連死、死亡認定も含む)。山元は宮城県内の人口における死者数の割合が女川町に続き2番目に多かった。沿岸を走っていたJR常磐線は山元町の坂元、福島県の新地駅が全壊。2016年12月から運行を再開した浜吉田~相馬の全23.2キロのうち約14キロは内陸側に移設された。

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