【東日本大震災から8年 新時代へ】<中>帰還困難区域から500メートルの佐久間牧場が復活…2863日ぶり生乳出荷を再開

スポーツ報知
今年1月、7年10か月ぶりに生乳の出荷を再開させた佐久間牧場の佐久間哲次さん

 東京電力福島第1原発の事故による放射能の影響で、現在も福島県内の7市町村には帰還困難区域が存在する。その区域から直線距離でわずか500メートルの葛尾村内で今年1月、佐久間牧場は生乳の出荷を再開した。県内有数の出荷量を誇った牧場は、なぜ約8年の時を経て復活したのか。2代目として実質的に牧場を運営する専務の佐久間哲次さん(43)は「震災前に思い描いていた牧場像を実現するまでは、立ち止まるつもりはない」と前を見据えている。(高柳 哲人)

 今年1月11日。2011年3月11日から数えて7年10か月ぶりに、佐久間牧場に生乳の収集車がやって来た。「実際には数日前から出荷する態勢は整っていたのですが、父が『再開するなら大安にしよう』とこだわって(笑い)。それまでは『(放射能は)もう大丈夫』と思いながらも、地面にすべて生乳をまいていた。飲める牛乳を捨てるということは、我々にとっては苦しみそのもの。それをしなくていいことが一番うれしかったですね」と佐久間さんは振り返った。

 震災当日、葛尾村は震度5強を記録したが牧場は地震の直接被害が全くなく、停電もしなかった。「テレビで津波などの被害の様子を見て『大変だな』と他人事のところもありました」

全村避難決定牛が消えた… だが翌日、原発事故の影響で「当たり前のこと」が断たれ、震災が現実のものとなる。「収集車が来なかった。牧場に来るまでの道で警察が『ここより奥に行ってはいけない』と収集車を引き返させていたそうです。すでに警察はタイベックス(防護服)を着ていたそうですが、我々はいつも通りに仕事をしていました」

 日を追うごとに、避難区域が同心円状に広がっていった。震災3日後の14日午後9時、当時の村長が全村避難を決定。家族で福島市内へ移動した。すぐ妻と子供は県外へ、同居まで1年間一人暮らしで奔走した。置き去りにした牛のうち、子牛は北海道の牧場へ。それ以外は食肉処理を行い、6月末には130頭いた牛が牧場から消えた。佐久間さん自身は街のパトロールや土建業の手伝いなどをして生活するかたわら、12年の村議選に当選し、村議となった。

 16年6月、牧場がある場所は避難指示が解除された。牛がいなくなった牧場をどうするか。家族の中ではさまざまな意見が出た。「母は『もうやらなくてもいい』と言った。父は何もいいませんでしたが、自分が始めた牧場ですし、心の中では『再開してほしい』という気持ちはあったと思います」。佐久間さん自身は牧場を畳むことは全く考えていなかったという。

 「うちの牧場は2006年に牛舎を新設し、さらに拡大する計画を持っていました。当時の出荷レベルは全農福島のトップだったのですが、まだフル稼働には届いていなかった。震災当時、『未来図』に届いていなかったんです」。県内の牧場をリードしているという自負が「こんなことで負けていられない。巻き返すことはできる」という気持ちを奮い立たせた。

 生乳を出荷するにあたって県の検査は最低3回受けなければいけないが、独自でも検査を行った。昨年10~12月の間に計16回。すべてにクリアし、国が出荷を許可した。2月に牛を買い足し、生産量は徐々に増えているものの、震災前のレベルには届いていない。それでも佐久間さんは「まだまだ道半ば」と歩み続けている。

 「近い将来、1~2年のうちに当初の規模に戻すことができれば。そこから先は、ロボット搾乳など最先端の技術を取り入れていこうと考えています」。現在は日々の搾乳に加え、牛舎の拡張や牧草地の造成などを進めているが、業者に頼らず自らの手で行っている。「震災後にしていた仕事が役に立っています。土建業の手伝いをして学んだ土木作業は無駄ではなかった。震災もマイナスではなかったと考えていきたいと思います」

 ◆原発事故の避難区域 東京電力福島第1原発事故で、国は11市町村にまたがる区域に避難指示を出した。放射線量に応じて帰還困難区域、居住制限区域、避難指示解除準備区域の3種類がある。帰還困難区域は原則立ち入りが制限されている。除染や生活インフラの整備が進み、2014年の田村市都路地区以降、9市町村で順次解除が進んだ。第1原発が立地する双葉、大熊両町の全域と、南相馬市、浪江町、富岡町、葛尾村、飯舘村の一部区域では避難指示が続いている。

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